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佐藤和男氏論文『南京事件と戦時国際法』 の疑問点について

2017-07-09 14:26:09 | 近現代史関連
「南京事件」について、いわゆる「戦時合法説」を主張する論者に、国際法学者の佐藤和男氏がいます。

では、佐藤氏が「南京事件」についてどのような主張をしているか、内容について確認しておきましょう。

なお前提として、いわゆる佐藤和男氏の論文というのは、『南京事件と戦時国際法』
、つまり「正論」平成13年3月号 に掲載されたものを指します。

こちらのサイトで紹介されています。
http://www21.atwiki.jp/nankin1937/pages/16.html

サイトの作者の方による様々な解釈が別コンテンツとして存在しますが、ここではあくまでも佐藤氏の論文についてだけ考察することにします。

以下、気になった部分に注釈を入れます。
(なお、文字数の関係で、以下は部分引用としています)

>南京事件についていえば、右の(1)として、わが国の幾多の研究者の積年の努力によって、大虐殺論はほぼ完全に否認される状況に立ち至っていると、筆者は認識する。

※実際には我が国の「歴史学会」において「大虐殺論はほぼ完全に否認」されている状況、というのは存在しません。
犠牲者数を少なく見積もる論者でも2万人程度の「不法殺害」は認めていますし、犠牲者数10数万~20万人という笠原十九司氏の説が「学術的に否定された」という話も聞いたことがありません。


>鈴木明、田中正明両氏の先駆的研究に続き諸調査が発表され、わけても財団法人・偕行社による『南京戦史(同資料集Ⅰ・Ⅱ』(初版は平成元年、増補改訂版は平成五年の刊行)が画期的といえる実証的かつ総合的な調査成果を世に示し、これらの業績を踏まえつつ、板倉由明、東中野修道、日本会議国際広報委員会等のそれぞれ特徴ある労作が公にされている。(P308-P309)
 本稿で筆者が試みるのは、右の(2)の考察であり、国際法の観点から、今日なお論議の余地ありとされている事件関連の問題点について、検討することとしたい。(P309)

二、支那事変と国際法の適用
 昭和十二年七月七日夜、盧溝橋畔の日支両軍の武力衝突に端を発した支那事変(九月二日、北支事変から改称)は、昭和十六年十二月九日に支那政府(中華民国、蒋介石・国民党政権)が対日宣戦布告を行って、事変が大東亜戦争に包含されるまでの間、日支いずれの側も国際法上の正式の戦争意思(アニムス・べリゲレンディ)を表明しない「事実上の戦争」として性格づけられ、国際社会も、例えばアメリカやイギリスも、それを正規の(法律上の)戦争とは認めなかった。
 しかし、一般的に国際武力衝突を規律する規範とされている戦時国際法(交戦法規といわれる部分)が、戦争の場合と同様に同事変にも適用されることには、異論の余地がなかった。

※当時の日本国政府の見解は「支那事変」には「交戦法規」をそのまま適用しないという方針でした。

○交戦法規の適用に関する陸軍次官通牒

交戦法規の適用に関する件
陸支密一九八号 昭和拾弐年八月五日
 次官より駐屯軍参謀長宛(飛行便)
今事変に関し交戦法規等の問題に関しては左記に準拠するものとす
右依命通牒す
   左記
一、現下の情勢に於て帝国は対支全面戦争を為しあらさるを以て「陸戦の法規慣例に関する条約其の他交戦法規に関する諸条約」の具体的事項を悉[ことごと]く適用し行動することは適当ならす
<二、 三、省略>
四、軍の本件に関する行動の準拠前述の如しと雖帝国か常に人類の平和を愛好し戦闘に伴ふ惨害を極力減殺[げんさい]せんことを顧念しあるなるか故に此等の目的に副ふ如く前述「陸戦の法規慣例に関する条約其の他交戦法規に関する諸条約」中害敵手段の選用等に関し之れか規定を努めて尊重すへく又帝国現下の国策は努めて日支全面戦争に陥るを避けんとするに在るを以て日支全面戦争を相手側に先んして決心せりと見らるゝか如き言動(例えは戦利品、俘虜等の名称の使用或は軍自ら交戦法規を其の儘[まま]適用せりと公称し其の他必要己むを得さるに諸外国の神経を刺戟するか如き言動)は努めて之を避け又現地に於ける外国人の生命、財産の保護、駐屯外国軍隊に対する応待等に関しては勉めて適法的に処理し特に其の財産等の保護に当たりては努めて外国人特に外交官憲等の申出を待て之れを行ふ等要らさる疑惑を招かさるの用意を必要とすへし
<五、六、省略>
追て右諸件堀内総領事にも伝へられ度外務省諒解済

偕行社『南京戦史資料集1』P457-458

佐藤氏の

>戦時国際法(交戦法規といわれる部分)が、戦争の場合と同様に同事変にも適用されることには、異論の余地がなかった。

という文は、当時の日本国政府の見解と、明白に矛盾します。

>戦時国際法は、国際法全般の場合と当然ながら同様に、時代の進展に伴ってその内容を(比較的に急速に)変遷せしめている法体系であり、しかもその法源中の条約の持つ特殊性(締約国のみを拘束する)により、諸国が遵守すべき規範内容に差異が生じ得るものなのである。


>三、捕虜の取扱いに関する法規
 "南京事件″では「捕虜」にかかわる諸問題が格別に重視されているので、国際法上の捕虜の取扱いについて概観しておく。
 捕虜の待遇は、近代国際法の交戦法規の中で特別の関心が払われてきたが、一八七四年のブリュッセル宣言(発効しなかった)の十二箇条が捕虜に関する法制を構想し、以後の関係条約中において具現されることになった。
 一八九九年と一九〇七年のハーグ平和会議を機に、一八九九年ハーグ第二条約と一九〇七年ハーグ第四条約(前出の陸戦条約)との双方の付属規則に、捕虜に関する十七箇条の規定が設けられ、さらに他の一九〇七年ハーグ諸条約中の若干のものにも多少の関連規定が置かれた。
 第一次世界大戦の経験を通じて右のハーグ規則十七箇条の不備と不明確性が明らかとなり、その欠陥は一九一七年、一九一八年に諸国間で結ばれた諸条約によって、一部是正された。一九二一年にジュネーブで開かれた第十回国際赤十字会議は、捕虜の取扱いに関する条約の採択を勧告し、一九二九(昭和四)年にスイス政府は、そのような条約の採択(および戦地軍隊の傷者・病者に関する一九〇六年ジュネーブ条約の改正)のために外交会議を招集して、「俘虜(捕虜)ノ待遇二閑スル条約」を同年七月に正式に採択せしめるに 至った。
 この一九二九年ジュネーブ捕虜条約は、一八九九年、一九〇七年のハーグ陸戦規則中の捕虜に関する諸規定をある程度補足し改善する意義を有していた。(P310)
 右条約は、支那事変当時、日支両国間の関係には適用されなかった。支那(中華民国)は一九三六年(昭和十一)年五月に同条約に加入していたが、日本は未加入であったからである(本条約は、条約当事国である交戦国の間で拘束力を持つ)。(P310-P311)
 ちなみに、大東亜戦争が開始された直後の一九四一(昭和十六)年十二月二十七日の連合国側の問合わせに対して、日本政府は翌年一月二十九日に、未 批准の一九二九年捕虜条約の規定を準用すると回答している。準用とは「必要な変更を加えて適用する」との意味である。しかし、連合国側は、あえて準用を批准 とほぽ同義に解釈したのである。
 以上見た限りにおいても、捕虜に関する国際法上の規範の内容が時代の進展とともに変化(おおむね改善)せしめられていることが理解されよう。その規範の法源は十九世紀後半に至って慣習法から条約へと徐々に転換して成文化の道を辿ることになるのであ るが、各時代・各国家間関係に対応して現実に適用される関係法規の実体の認定に際して、厳密な注意が要求されることは、いうまでもない。
 現在では「法規認定の補助手段」として国際裁判に際しても重要視されている卓越した国際法学者の「学説」を参照する場合にも、このことは忘れられては ならないのである。例えば、わが国で比較的に良く知られていて引用されることも多い『オッペンハイム国際法論』第二巻(永きにわたり戦時国際法の専門的な解説書として高く評価されてきた) にしても、原著者L・F・L・オッペンハイムの死去(一九一九年)の後、異なる改訂責任者による改訂版として、記述内容も必要に応じた訂正を加えて継続的に刊行されており、支那事変当時の戦時国際法状況を知るために適当と考え られる第三版(一九二一年)、第四版(一九二六年)、第五版(一九三五年)は、それぞれR・F・ロックスバーグ、A・D・マックネア、H・ラウターパハトという異なる改訂者の手に成るところの、内容に変化が見られるものであることに、留意すべきであろう。
 以下、捕虜に関する実定法規の主要なものを簡略に説明する。
 まず初めに、捕虜の定義であるが、支那事変当時日支両国間に適用されるハーグ陸戦規則には、具体的に示されてはいない。ここでは、両国間に適用されなかったものの国際的な意味が少なくなかった一九二九年捕虜条約の第一条(1)が掲げている「一九〇七年ハーグ陸戦規則第一条、第二条、第三条二掲クル一切ノ者ニシテ敵二捕へラレタル者」を便宜上念頭に 置くこととする。(P311)
 右のハーグ規則三箇条は、交戦者の資格を、軍隊の構成員のみならず、(1)部下ノ為二責任ヲ負フ者其ノ頭二在ルコト、(2)遠方ヨリ認識シ得へキ固著ノ特殊 徽章ヲ有スルコト、(3)公然兵器ヲ携帯スルコト、(4)其ノ動作二付戦争ノ法規慣例ヲ遵守スルコト、の四条件を具備する場合、民兵と義勇兵 団とにも認め(第一条)、敵侵入軍の接近に際して「抗敵スル為自ラ兵器ヲ操ル」群民蜂起を行う占領されていない地方の住民にも、「公然兵器ヲ携帯シ、且戦争ノ法規慣例ヲ遵守スル」ことを条件に同様に認め(第二条)、また兵力を編成する 戦闘員と非戦闘員とが両者等しく捕虜の待遇を受ける権利を有することを認めており(第三条)、交戦者としての正当な資格を有するこれらの者が、国際法が認める捕虜としての待遇を享受し得ると定めるものであった。(P312-P313)
 ハーグ陸戦規則第四条は「俘虜ハ、敵ノ政府ノ権内二属シ、之ヲ捕ヘタル個人又ハ部隊ノ権内二属スルコトナシ」と規定するが、往昔、捕虜が捕獲者たる将兵の個々の権内に属して、彼等に生殺与奪の権を握られることがあったのである。
 「敵ニ捕へラレタル者」が交戦者としての適法の資格を欠く場合には、単なる被捕獲者に過ぎず、国際法上正当な捕虜であり得ないことは理論上明白であるが、現実の戦場でのこの点についての識別が実際上困難な場合もあり、紛糾を生ずる原因ともなり易い。
 第二次世界大戦の経験に鑑みて、一九二九年捕虜条約をさらに大幅に改善し拡大した一九四九年のジュネーブ第三条約(捕虜の待遇に関する条約)の第五条は、「本条約は、第四条に掲げる者〔捕虜の待遇を受ける資格のある者〕に対し、それらの者が 敵の権力内に陥った時から最終的に解放され、且つ送還される時までの間、適用する」、「交戦行為を行って敢の手中に陥った者が第四条に掲げる部類の一に属するか否かについて疑いが生じた場合には 、その者は、その地位が権限のある裁判所によって決定されるまでの間、本条約の保護を享有する」と規定している。

※佐藤氏は
>」、「交戦行為を行って敢の手中に陥った者が第四条に掲げる部類の一に属するか否かについて疑いが生じた場合には 、その者は、その地位が権限のある裁判所によって決定されるまでの間、本条約の保護を享有する」と規定している。

としています。

例えば「幕府山事件」、つまり第十三師団所属の山田支隊(歩兵第六十五連隊、山砲兵第十九連隊など)が起した、「南京事件」でも最大規模の「捕虜虐殺」として伝えられる事件において、当時の日本軍の認識でも明らかに「捕虜」としているにも関わらず、これを「合法」とする見解が成立するとは、ここからは読み取れません。

詳しくは、こちらをどうぞ。

http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/saigen5.html
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/saigen6.html
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/saigen7.html

ネット上などの独自解釈ではなく、佐藤氏自身による説明が期待されるところです。

>一九四九年捕虜条約は、一九二〇~三〇年代の捕虜に関する国際法規に比較して飛躍的に進歩した内容を示していて、もちろん支那事変当時の関連諸問題に直接影響を与えるものではないが、少なくとも右の第五条に見られる「敵の手中に陥った者」のことごとくが「敵の権力内に陥った者」(捕獲国から国際法上の捕虜としての待遇を保証された者)とは限らないことを示唆している点において、注目に 値しよう。(P312)

※ここでは

>「敵の手中に陥った者」のことごとくが「敵の権力内に陥った者」(捕獲国から国際法上の捕虜としての待遇を保証された者)とは限らないことを示唆している点において、注目に 値しよう。

と、されています。

では、どのようなケースが「例外」とみなされるのでしょうか?
具体例がほしいところです。


>四、"南京事件"関連の重要法規
 戦時国際法上、戦闘に際して、正当な資格を有する交戦者は各種交戦法規の遵守を義務づけられているが、軍隊構成員または民間人が敵国に対して交戦法規に違反する行為をすれば、それは戦争犯罪と認められて、相手方の交戦国は、当該行為者を捕えた場合に処罰できるものとされてきた。
 戦争犯罪を構成する行為としては、(1)軍隊構成員による一般的交戦法規の違反行為、(2)軍隊構成員ではない個人の武力による敵対行為、 (3)間諜(スパイ)と戦時反逆、(4)剽盗(戦場をうろついて軍隊につきまとい、略奪、窃盗、負傷者の虐待・殺害、死者の所持品の剥奪などをする行為)の四種類に伝統的に大別されてきた。
 右の諸行為のうち、間諜と戦時反逆が特殊な性格を持つものであることは、留意されなければならない。両方の行為はいずれも交戦国が実行する権利を国際法上認められており、しかも相手方の交戦国がその行為者を捕えた場合にこれを処罰する権利もまた認められているのである。
 違法ではない行為が処罰されるのは、一見法理的に矛盾しているが、それらの行為の害敵手段としての有効性とそれに基づく交戦諸国の現実的要求の前に法規が譲歩したものと考えられる。
 前記四種類の戦争犯罪のうち、戦時反逆については多少の解説をしておく必要がある。それは、交戦国の権力下にある占領地、作戦地帯、その他の場所において、当該交戦国に 害を与えその敵国を利するために、私人たる敵国国民、中立国国民、または変装した敵国軍人が行う行為を指している。

※南京戦当時、中国軍の「便衣兵戦術」によるゲリラの存在は確認されていません。
http://www.nextftp.com/tarari/sonzaisinai.htm

安全区内で不法なゲリラ活動をしていた便衣兵というものの史料を提示いただきたいものです。

>この種の有害行為は、敵国軍人が正規の軍服を着用して行う場合には戦時反逆にならないが、民間人に変装して行えば戦時反逆となる。その具体的内容はきわめて多岐にわたるが、 敵側への情報の提供、軍・軍人に対する陰謀、軍用の交通機関・資材の破壊、諸手投による公安の妨害、敵兵の蔵匿隠避、出入禁止区域への出入、強盗なども含まれている。
 戦争犯罪は、それを実行した個人が責任を問われるというのが原則であり、軍隊構成員という国家機関の行為でも、責任は国家に帰属せずに個人責任が問われるのが常である。(P313)

※軍隊構成員という国家機関の行為でも、責任は国家に帰属せずに個人責任が問われるのであるなら、逆に例えば「司令官が逃亡したら、捕虜を殺しても良くなる」という論法は成立しないように思われます。

ちなみに「南京事件」について、一部の方による、このような主張があります。

南京陥落当時の中国兵は
・交戦資格が無かった。
・「捕虜」ではなかった。
・それでも審問は行われていた。

では、司令官である「唐生智が逃亡したから交戦資格はなかった」と言うのは、どの国際法学者も採用しない「俺様ルール」ではないのでしょうか?


>各国軍隊は、軍律を制定して、戦争犯罪(一般的交戦法規違反とは特に区別して戦時反逆を取 り上げている場合もある)を処罰の対象として規定し、軍律違反者たる戦争犯罪人を、軍の審判機関(軍律法廷)を通じて処罰するのが慣例であった。(P313-P314)

※軍律を制定して、戦争犯罪(一般的交戦法規違反とは特に区別して戦時反逆を取 り上げている場合もある)を処罰の対象として規定し、軍律違反者たる戦争犯罪人を、軍の審判機関(軍律法廷)を通じて処罰するのが慣例であった、とするなら、審判機関(軍律法廷)を通さずに処刑するのは、明確に「違法」ということになります

>軍律法廷は純然たる司法機関ではなく、統帥権に基づく機関であって、むしろ行政機関、あるいはせいぜい準司法機関というべきものである。その行う審判は、機能的には軍事行動と把えるのが正確であり、その本来の目的は、戦争犯罪を行った敵対者の処断を通ずる威嚇によって、究極的には(占領地・作戦地帯における)自国軍隊の安全を確保することにあった。そのため、審判の手続は簡易にされ、軍罰(たいてい死刑)の執行は迅速であった。
 軍律法廷の法的根拠は、国内法上は憲法に定める統帥権に、また国際法上は軍が行使する交戦権、わけても「敵国ノ領土ニ於ケル軍ノ権力」(ハーグ陸戦規則第三款)に存する。


>次に、ハーグ陸戦規則第二十三条(ハ)は「兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞へル敵ヲ殺傷スルコト」を禁止し、同条 (ニ)は「助命セサルコトヲ宣言スルコト」を禁止している。
 しかし、激烈な死闘が展開される戦場では、これらの規則は必ずしも常に厳守されるとは限らない。
 『オッペンハイム国際法論』第二巻の第三版一九二一年)は「戦闘に伴う憤怒の惰が個々の戦士にこれらの規則を忘却、無視させることが多い」と嘆いているが、このまったく同一の言葉が、同書の第四版(一九二六年)にも、さらには弟六版(一九四〇年)にも、第七版(一九五二年)にさえも繰り返されている。
 学説上では、助命を拒否できる若干の場合のあることが広く認められている。(P314)
 第一は、敵軍が降伏の合図として白旗を掲げた後で戦闘行為を続けるような場合である。一般に、交戦法規は交戦国相互の信頼に基づいて成立しているので、相手方の信頼を利用してそれを裏切ることは、「背信行為」として禁止されている。具体的には、休戦や降伏をよそおって相手方を突然に攻撃すること、戦闘員が民間人の服装をして攻撃すること、赤十字記章や軍使旗を不正に使用すること、などがその代表的な ものである。(P314-P315)
 なお、優勢に敵軍を攻撃している軍隊に対して、敵軍が降伏の意思を示すペき白旗を掲げた場合、攻撃軍の指揮官は、 白旗が真に敵指揮官の降伏意思を示すものであると確信できるまでは、攻撃を続行することが法的に許されており、攻撃を停止しなければならない義務はなく、戦場における自己の安全の確保のために交戦者の主体的判断が尊重される事例となっている。

※一般に「戦数」と呼ばれる理論です。

『国際法辞典』国際法学会編、鹿島出版会(昭和50年3月30日発行)
P400 戦数より

ドイツ語のクリーグスレゾンの訳語で、戦時非常事由または交戦条理ともいわれ、戦争中に交戦国が戦争法規を遵守すべき義務から解放される事由の一として主張されてきたものである。
個人の場合に緊急状態の違法行為がその違法性を阻却されるのと同様に、戦争の場合に交戦国が戦争法規を守ることによって自国の重大利益が危険にさらされるような例外的な場合には、戦争法の拘束から解放される、すなわち、戦争の必要が戦争法に優先する、と主張される。
この理論は、とくに第一次大戦前のドイツの国際法学者たちによって主張されたものであるが、イギリスやアメリカの学者たちはこぞって反対している。

要するに、この理論についてのコンセンサスは国際社会にはありません。


>第二に、相手側の交戦法規違反に対する戦時復仇としての助命拒否であり、相手方の助命拒否に対する復仇としての助命拒否の場合もある。
 一般に戦時復仇とは、交戦国が敵国の違法な戦争行為を止めさせるために、自らも違法な戦争行為に訴えて敵国に仕返しをすることをいう。前出『オッペンハイム国際法論』第二巻(第四版・一九二六年)は「捕虜が、敵 側の行った違法な戦争行為への復仇の対象にされ得ることには、ほとんど疑いがない」と述べている。一九二九年捕虜条約は新機軸を打ち出して、捕虜を復仇の対象とすることを 禁止した。
 第三は、軍事的必要の場合である。交戦国やその軍隊は、交戦法規を遵守すれば致命的な危険にさらされたり、敵国に勝利するという戦争目的を達成できないという状況に陥るのを避ける極度の必要がある例外的場合には、交戦法規遵守の義務から解放されるという戦数(戦時非常事由)論が、とりわけドイツの学者によって伝統的に強く主張されてきたが、その主張を実践面で採用した諸国のあることが知られている。


>一般に国際武力衝突の場合に、予想もされなかった重大な軍事的必要が生起して交戦法規の遵守を不可能とする可能性は皆無とはいえず、きわめて例外的な状況において誠実にかつ慎重に援用される軍事的必要は、容認されてしかるペきであるという見解は、今日でも存在しているのである。(P315- P316)
 なお第二次世界大戦末期に連合軍が日本の六十有余の都市に無差別爆撃を加え、広島、長崎には原子爆弾を投下するという明々白々な戦争犯罪行為を、"軍事的必要″を名目にして行った事実は、日本国民がよく記憶するところである。(P316)

※極東国際軍事裁判において「重慶爆撃」について、このような議論があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E6%85%B6%E7%88%86%E6%92%83

>さらに戦後には、戦略爆撃を始めた側として東京裁判で弾劾されたほか、非人道的行為をおこなった当事者「日本」を非難する活動に材料として利用され、また重慶爆撃と同じく戦時国際法で明確に禁止されている非戦闘員への無差別攻撃である東京や広島・長崎への爆撃が、重慶爆撃への報復であるとして正当化され、同じく非戦闘員を無差別に攻撃した、東京大空襲をはじめとした日本全土への無差別爆撃や原爆投下に対する非難を相対化させる状況を与える要素ともなった。

単純に解釈して、つまり佐藤氏はこれを認める、ということでしょうか?

なお、これは私が「重慶爆撃」が、東京大空襲をはじめとした日本全土への無差別爆撃や原爆投下に対する非難を相対化させることが、国際法上「合法」である、と主張しているという意味ではありません。

佐藤氏の論理を突き詰めると、これと同様になる、と指摘しているだけです。


>なお第二次世界大戦末期に連合軍が日本の六十有余の都市に無差別爆撃を加え、広島、長崎には原子爆弾を投下するという明々白々な戦争犯罪行為を、"軍事的必要″を名目にして行った事実は、日本国民がよく記憶するところである。

※佐藤氏は第二次世界大戦末期に連合軍が日本の六十有余の都市に無差別爆撃を加え、広島、長崎には原子爆弾を投下するという明々白々な戦争犯罪行為を、"軍事的必要″を名目にして行った事実を、どのように考えているのでしょうか?

以上、個人的に「問題点」と思われる点についてコメントを入れてみました。

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