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山本五十六は誰よりも戦争を反対していたというのは史実ではない

2017-05-05 20:35:35 | 近現代史関連
よく、山本五十六は誰よりも戦争を反対していたと言われていますが

結論からいうと、そのような事実はありません。

そもそも山本五十六は日中戦争に賛成の立場でした。

これに関しては否定のしようがないです。

例えば支那事変当時に陸軍が南京を攻略する以前に、山本五十六の意向によりが南京を渡航爆撃をしていたという事実があります。

出典:笠原十九司氏『海軍の日中戦争』(平凡社)第2章

同書のごく一部を抜粋します。

>第三艦隊司令部が大山事件を口実として発動させた渡洋爆撃が、九六式陸攻の格好の実戦演習の場の機会であると山本が思ったことは想像に難くない。現に、渡洋爆撃の第一連合航空隊(木更津航空隊・鹿屋航空隊)の司令官・戸塚道太郎大佐が前年一二月に館山航空隊司令に任命されたとき、本人は艦長になりたかったために不服として人事局にねじ込みに行ったところ、山本航空本部長に聞けといわれて行くと、

「良く聴け戸塚。今海軍で陸奥・長門の威力をはるかに凌駕する、九六式陸上攻撃隊が着々として完成して、目下館山航空隊で秘密裏に実験研究中なのだ。九六式陸攻の威力を発揮させる事のできる者は、貴様が最も適任者だとおれが見込んだのだ。解ったか戸塚」

と、懇々と航空界の趨勢を諭したという。

(『海軍の日中戦争』P116より)

>その戸塚道太郎大佐は、八月一四日から一六日の三日間にわたる渡洋爆撃が終わった後の第一連合航空隊の戦闘詳報に「往年の二〇三高地にも等しい心境をもって」作戦を指導したと述懐している。すなわち対米戦のための艦隊決戦即短期決戦を想定、しかも天候に左右される飛行機は戦力としての価値に劣るという海軍内の艦隊派からの批判を覆すために、被害を顧みず、悪天候下の連続渡洋爆撃をあえて強行したということである。日露戦争において、戦死者の山を築きながら戦った「二〇三高地にも等しい心境」とは、なみたいていの決意でなかったことがわかるが、それは当時海軍次官であった山本五十六中将から託されたものであったと想像がつく。

>以上のことは、航空本部長であった山本が、新鋭機として開発させた九六式陸上攻撃機の性能を実戦的に証明して宣伝するために、渡洋爆撃敢行の機械を狙っていたことをうかがわせる話である。

(『海軍の日中戦争』P116~117)

→また昭和13年1月の大本営・政府連絡会議で米内海相は、政府の主張する和平交渉渉打ち切り、戦争継続に賛成していますが、これは米内単独の意見ではなく、当然次官だった山本五十六なども含めた海軍省としての「戦争継続に賛成」という総意でしょう。

少なくとも、ここからは山本五十六が日中戦争に反対だったという結論は導き出せません。

田中宏巳氏による『山本五十六』(日本歴史学会編集・人物叢書)という本があります。

その本の中で田中氏は、少なくとも艦隊決戦にアメリカ海軍を引き込み、これに大勝すれば和平の機会があると山本五十六が考えていたのは確かであるとしています。

>山本が革新性に満ちた軍人でなかったことは、艦隊決戦で大勝利すれば、日露戦争のように講和の機会が訪れると海軍軍人が抱いていた極楽トンボに近い楽観論に、山本も近い考えを持っていたことでもわかる。真珠湾奇襲作戦計画は、彼が海軍の方針だけに満足せず独自色を打ち出した一例だが、その根底には米海軍を撃破すれば早期和平が期待できるかもしれないという期待があった。この楽観的期待論は、山本が海軍きってのアメリカ通でありながら、海軍教育の忠実な教え子の一人として、その教えの枠を超えられなかったことを物語っている。

(『山本五十六』P179~180)

実際、こうした山本の考えは、例えば昭和16年1月7日付けで海軍大臣及川古志郎に山本が提出した「戦備ニ関スル意見」にも、はっきりとあらわれています。

日米戦争ニ於テ我ノ第一ニ遂行セザルベカラザル要項ハ開戦劈頭ニ敵主力艦隊ヲ猛撃撃破シテ米国海軍及米国民ヲシテ救フ可カラザル程度ニ其ノ士気ヲ阻喪セシムコト是ナリ

開戦劈頭に米艦隊を撃破して立ち直れないほどに士気を砕いてしまう。

ここで山本は真珠湾攻撃構想を明らかにするわけですが、つまり「開戦劈頭ニ敵主力艦隊ヲ猛撃撃破」のための方策こそが真珠湾攻撃の(山本にとっての)目的だったわけです。
(それが国策に反映されたかどうかは別の話になりますけど)

つまり山本は、対米戦争が、日露戦争のような「限定戦争」ではなく、総力戦にしかなり得ず、途中での和平は不可能だということを理解していなかったという事になります。

そして以降は、この山本五十六による「戦備ニ関スル意見」に基づいて対米開戦の準備は実際に進められました。

前出の笠原氏によると

>源田實中佐が、緒戦の日米航空決戦に勝利できる自信をもって、真珠湾攻撃作戦を作成し、大西瀧治郎少佐をとおして山本五十六連合艦隊長官へ提出したのは、零戦の完成と中国の奥地攻撃における実戦演習の証明があったから

出典:『海軍の日中戦争』P160

→とのことです。

そして山本は真珠湾攻撃という着想を得てからは、少なくとも対米開戦にも反対という姿勢は見せなくなっていきました。

なお田中氏の『山本五十六』の「結論」の一部を引用します。

『東郷平八郎と山本五十六が名提督の双璧とされている。東郷の場合は、日露戦争の最後の方で決定的勝利を収めたことによって名声を確立した。

一方、山本はその正反対で、開戦劈頭の真珠湾攻撃で華々しい戦果を収め、その後、四ヵ月間、勝ち続けたが、あとはじりじりと後退する一方であった。日本が劣勢に立たされはじめたところで戦死を遂げ、敗軍の将にならずにすんだ。

凱旋将軍になった東郷の名声には文句のつけようがない。
だが山本は、戦死しなければ敗軍の将になっていた可能性が大きいだけに、名声を博す理由がどこにあるのかよくわからない。

山本について多少の知識を有する者に問えば、おそらく百人百通りの答えが返ってくると思われ、彼の名声の根源がどこにあるのか決め手がない。

開戦以前に、山本の名が国民の間に知れ渡るようになるのは連合艦隊司令長官になってからであろう。それ以前においては、海軍に属していれば知らぬ者はいなかったかもしれないが、国民にすれば、定期的に交代する航空本部長や海軍次官の一人として彼の名前を聞いたに過ぎなかったであろう。とすれば山本の名が国民の間に浸透するのは、開戦前後の短い期間と考えてよさそうである。

山本の名が国民に対して強烈にアッピールしたのは、真珠湾攻撃成功のニュースであった。これ以降、国民が聞く大本営海軍部の発表は敗戦の日まで連戦連勝のニュースばかりで、一度も負けたという話を聞くことはなかった。昭和十九年になると、「玉砕」のニュースによって戦闘が本土に近づいていることを察して、日本軍が苦戦しているらしいと感じた日本人が少なからずいたといわれるが、山本が戦死した昭和十八年五月はまだ戦場がほとんど後退せず、いわば最大版図を誇っていた。それゆえ国民は、常勝の提督として山本の名を脳裏に焼き付けた。いわば日本軍が一番よかった頃の象徴として山本の名を刻んでいたのであろう。』

(同書P280~281)

概ね妥当な評価に思えます。

なお田中氏は

『彼の戦績と名声が不釣合であることは否定できない。』

(同書P282)

と、はっきり書いています。

私も、山本五十六を名提督と讃える方々の多くは、このイメージを元に考えており、山本五十六の具体像については、あまり関心がないように感じます。
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