少太 BLOG

考える日々

主体が

2017-12-14 23:53:32 | 日記


ゆっくりと日々の事について言葉としての日々を書ける気がしてきている、それはゆっくりとやってきてようやく。

私は日々というか毎日ほぼ同じ時間に3キロほど散歩をする(ここではカントの話をしたいわけではない)。

自然から学ぶことは色々あるが、いや色々ある。

私は動物に興味がないという人の理由が「私はヒトだから」という人に対してすぐに面白くなくなる私はきっと「私はそれらに興味があるから、それらに興味がない人には興味がない」というふうにとられるであろう言葉でしか説明しようがなかったが、それは「私はヒトであるから動物の事など興味がない」のと同じことを主体が「ヒト」なのか「動物や自然」なのかの違いであって、私は同じ種類の発言をしているということになる。そこを否定的に誰にでも同じように流れているそれが日々なのだという事でも全然ない。それを言いたいのであればそれは時間、空間とかそっちの話になって、輪廻転生とかになってそっちの話であればきっと「日々について」をテーマに置かないし、言いたいことはそういう事ではない。

以前日々についての文章を書いてといわれた時に私は日々の日記の様なものを書いたが、その様に誰にでも坦々と日々はあり、坦々と続くという事を言いたかったわけではない。坦々とあるのは当たり前だ。


私にとって日々は膨大であり、すべてである。なんて書くと嘘臭くなる、駄目だまた書けなくなってきた。

地球中心論とか地動説、その概念を規模を小さく小さくしていき、宇宙と地球あるいは太陽→神と地球→万物と人類→王と民→カースト制度とかそういう話になっていくことだとして、それは認識できる物事一つ一つにより全体像が広がって、哲学的であればこうではないのか、科学的には観測の結果こうであるという話で、つまり私がヒトであるのを前提として自然や万物が、世界が見えてくる像であり、例えば映画を見てその場面場面で起こる出来事がその映画の主体であり、その場面場面で全体が構成されている、そして全体がある、だから同じ作品に対して「この映画は展開が色々あって、、」という視点と、「この映画はこんなにも何もなくそこが面白い」という視点と、つまり「自然に興味を向けないと自然の奥深さは解らない」という一つの片寄った視点にではなく、ヒトの起こすあるいは起こる社会的物事にもまれている人々がいて、その片隅でそのすぐそばで自然に身を投じている人がいるが、互いのヒトには同じ時間(時刻の事では無く、体感的質量をさす)は流れていなくて、それはそちらに意識を向ければ世界が広がるというそれではなく、ただ自然はそこにある。自然に身を投じているひとも、何処かで人間社会の事を思っている、だから「私はヒトだから」と私は「自然の様な何かである」の世界は同じようにそこにあるのであり、そういう全体の片隅で私は日々歌の言葉を書いては消し、楽器に触れているが、風が塵や枯れ葉を、巻き込んでいく様に、日々の行為にまとわりついてくる塵や枯れ葉のぶん膨らんでいく内面性としての音、変化をもたらすその塵や枯れ葉に気付いている、驚きがある。

いや、ここまで書いてまたわからなくなった。

日記の様なものとして保存しておく。

コメント

ライブです

2017-12-11 22:00:06 | 日記


ライブです、今年最後の。

12/24(日) Tarji Night
出演 ・ちとっぺ / Kechon Kechon Jug Band/ 松沢春伸 / BRONCO. / 少太
Open 17:30 Start 18:00 チャージ1500円(ドリンク別)
山形市七日町二丁目7-28 YT二丁目ビル1F TEL 023-623-3944

Bar Tarji
コメント

冷凍違い

2017-12-09 18:28:47 | 日記


彼は数年ぶりに風邪に見舞われた。

丑四つ時に布団に包まって高熱にうかされていた。

タオルで首に巻き付け動脈を冷やしていた保冷剤が溶けていた。

暗闇の中彼女はそれに気付いて冷凍庫の凍った保冷剤を取りに茶の間へ向かう。

ガサゴソと音がして寝室に戻ってきたと思ったら「あっこれハンバーグだ、何か形が変だと思ったら」と言い残しまた茶の間へ戻って行った。

彼は冷凍ハンバーグで動脈を冷やしている姿を想像した。

失笑して声にならない声でプルプルと肩を震わせ笑った。

そのせいで激しく咳き込んだ、更に熱が多分0度3分ほど上がった。



彼とは私の事か、いや、そうとも言えないし、夢ではないとも言えない。
コメント

練りこまれていく言葉

2017-12-06 01:56:21 | 日記


それでは月は月なのか、言語化された「月だ!」に起こる思考の連想の様なものは月でもなく、もう完全に月であり「兎がもちをついている様な」「丸く輝く」「太陽系の、地球の周りを、、、」も全て月以降であり、「あれは何か」ではない。


伝えるという意味での月を伝えるための言語化以前の、素早く意識化されてしまう直前の無意識間での感情を、指をさしてただため息が漏れるだけの「・・・・」という物に限りなく近いものを言語化してみようと試みるが、それは突き詰めると難しい言葉になっていくのとは逆の、そういうものは歌にしうるものではないのかもしれないけど、最近そんな事ばかり考えていて、何度も書き換えられた重ねられて埋もれた言葉がもたらす能動的(といっても一度埋もれたと書いている時点で何らかの受動性を持った)それを楽器の音としてではなく歌として言語として表現しうる限りの言葉を探す事の方に向かい始めているが、しかし一向に進まない、当たり前だ、きっとずーっとそうだ、消しゴムのカスに練りこまれる言葉との日々。完成に進むことよりも、むしろその行為(外面化された自我を通し内面化される)そのものが厚みとなっていくのかもしれない。これとはならずにずーっと仮の歌を歌っている様な日々のその行為の中に。

私とあなたが並行して歩いている
私というあなたが歩を進めている
あなたが歩を進めた、わたしの歩が進んだ
私はあなたの様に歩いている月だ
丸い吐息が私を見ている
あっ丸い吐息だ、、


コメント

とにかくカフカは書いた

2017-11-29 04:01:13 | 日記
カフカの小説は「今日はここまで」という区切りが難しく、それでいて次にその続きから読み繋げようと、また区切りの前編を復習しようと、また夜を徹して一気に読み進めようと、繰り返し再読しようと、話の辻褄があってくるとか、カフカの真理(書き手が何を思い、何を伝えようとしているのか)が理解出来てくるとか意味がわかってくるとかそういうものがまるでなく(まるでなくと言うのは書き手は物語の中で何かを伝えたいものだ!とした場合に対しての私の印象であるが)例えば計画性も出来上がりのイメージもなく、ただ思いつきの日曜大工の様な、イメージがないために出来上がりに向かわない家具の様な、あるいは雑な比喩で言うと、イカの刺身を作ろうと皮を剥がれたイカが、さていよいよ切られるのかと思っていたら一向に事が進まずに、細く切られていくのをただひたすら想像しながら、その間に茶の間ではすでに家族の夕食が始まっていて、台所に立つ母親とちゃぶ台を囲むその家族の団欒をそばで感じながらまな板の上に寝かされていて、その理由が母親が何を作ろうとしていたのか忘れてしまったのならばイカにとっては因果関係が成立するのだが、どうもそうではなくて、それでも時たまイカに触れるのだから、イカの存在そのものが忘れられたのでもなくて、その日は結局母親に捌かれることなく放置されたまま家族の夕食が終わり、まな板の横のシンクですっかり洗い物がすまされ、蛍光灯がパチリと消灯され、薄暗いまな板の上で、磨りガラスからこぼれるやさしい月明かりに照らされたまな板の上で、今までの家族の団欒の内容やら、これからの先の見えぬ運命やらを、明かりの消されたその薄暗いまな板の上で何時までも考えているそのイカの心境というか、ところで何故イカなのか。

とにかくカフカは書き続けた、何かを削りながら小さく走った。

読んでいるうちに何処かにたどり着く道筋があるのではなく、道筋の様なものがあったとしても、木の枝のように別れながら合流することなくバラバラの速さで伸びていくようなそんな様な気持ちというか常態というか、、、になる。
コメント

空と大地

2017-11-27 04:54:56 | 日記
私は汗をかきながら手拭いを首に巻いて稲を摘んでいる、綿のようにして。通りには凸凹のぶつけたであろうという意味での痕跡の車がブンブン走り、時たま手巻きの(手巻きであると想像した)窓から手がふられ振り残す。声はない。

誰だか知らない人が、稲を踏むようにして踊っている。ハチャメチャなステップなのだが、しっかり稲を踏んでいる。タンタンタン、稲がしなり、流れるように整頓される。

近代のまんまるい目玉を持った列車の様なものが遠くでどす黒い煙ならまだしも、透明に近い煙というか息に近いものを吐きながら空に走って行った 。

何かこめつぶみたいな物がうごめいているが、一つうごめいていない物がある。

うごめいていないのは私であり、その私の視点に戻り止まって見えたのは光の速度に近い空に飛び立った列車の何両目かの何番目かの車両の窓にたたずむ姿であった。

その表情は、笑っていたのか、泣いていたのか、思い出せない。


ヤーヤーワーワーの声と、チャンチャンチャカチャカのといった音で目が覚めた。
コメント

ライブです

2017-11-23 18:42:34 | 日記


次回のライブ情報。

12/3(日) BRONCO.presents ONE FOR THE ROAD
出演 ワタナベマモル / 少太 / Kechon Kechon Jug Band
渡部リョウタ / 山 / BRONCO.
Start 18:00 チャージ2000円(ドリンク別)

もう12月かぁ。
コメント

渓谷をゆく

2017-11-07 19:38:54 | 日記


雲一つなく、紅葉も終わりかけの紅葉川渓谷を歩く。雪が降り始める前に一度来ようと思っていた、登山コースではなく、渓谷沿いを歩く1時間半ほどのトレッキングコース。

歩き始めて最初の滝にうまい具合に光が差し込んであらわれた虹、コバルトブルーの様な水流の下にした潜む魚、揺れる吊り橋、流れる崖の岩肌にびっしりとひろがりつく、ヒカリゴケではなく、光って見える苔。嬉しく美しかった。


面白山駅に戻り、電車の時間まではまだ余裕があり、コースの入り口の最初の滝が見下ろせる丸太の上に座りビールを飲んでいたら、逆回りでコースを下から登ってきたカメラを持った男性が「どうもこんにちは、すぐ下のあの滝に、今なら光が当たって丁度虹が見えますよ」と微笑んだ。
コメント

夢と充足

2017-11-02 01:37:57 | 日記
フロイトの言うように夢は願望充足であると思っている。

直接的な場合もあるが、ものすごい複雑な、充足のためにその反対の内容の夢をみて、しかし、その場面場面の枝の様な道筋を辿っていくと1つの充足的な事柄に繋がる場合もある。

例えば充足される自身が誰かにすり替えられている場合もある。そういう場合、その知っている誰かに対して何かしらの後悔の念がある場合が多く、その誰かに自分の充足を譲り満たしてもらう事で、結果的に自身の罪悪感に対する充足となる、間接的な例とか。

直接的な例でいうと、私は水の底で地上の人々を眺めながら生活する夢を見るが、私は泳ぎがとても苦手である。小さい頃海で泳いでいて、その乱れたフォームのためか、溺れてるんじゃないかと間違われて助けられかけた事がある。


また助走をつけて走りながら見事にふわーっと空に舞い上がり、町を飛行する夢を見るが、私は軽度ではあるが高所恐怖症であり、飛行機が大の苦手である、とか、まぁこれは最も解りやすい例ではあるが。


近頃自分の夢を分析する事が小説を読んでいる時みたいに想像が膨らんで面白い。

あまり良い趣味ではないと思うが、脳のトレーニング程度にはなるかもしれない。
それは夢を出来るだけ鮮明に思い出す作業から始まるのだから。
コメント

四季の郷

2017-10-26 01:00:20 | 日記
冬の気配、四季の匂い。
コメント

ある雨の

2017-10-22 11:26:09 | 日記
ある雨の
ここにもあそこにも
イマージュ
空想ではなく
映るもの
永遠ではなく、限りあるもの
ここにもあそこにも
焔は点るが、やがては消える
長いと思えど、それは一瞬で
イマージュ
記憶ではなく
映るもの
世界がそれらを消すり始めて
誰かが書いた青い島のように
おじいさんが唄う唄のように
記憶ではなく
映るもの
コメント

灯りが消えたら

2017-10-20 03:37:40 | 日記
先日両親が遊びに来た。

私はとにかく、離ればなれの思春期を過ごしたために、知らない両親の言葉を聞きたくて、そういう話をした。今の声だ。少し前、私が話した言葉をまるで覚えていない両親と。

話をして、今の話がかえってくることに安堵した。それでいい。

それほど先の話ではない、私にもあなたにもそう遠くはない訪れ、死について考える。

やがて音も変わる。
コメント

脳と性質

2017-10-04 18:05:58 | 日記


これは近しき人の実際の話なのだけど、幼いころに自分はB型と聞かされて認識し、それからというもの事あるたびに大雑把だと言われて、だって「B型だもん」と言っていたものが、40才を過ぎて何かの際に病院に行き実はA型だと判明し、それからというもの事あるたびに神経質だと言われて「だってA型だもん」と言うようになったという、つまり脳の認識により性質が変わるという話。

医学的には血液型による性質の違いはないという事を証明しているようで面白い。
コメント

ライブです

2017-09-21 21:41:25 | 日記


ライブです。何だか久しぶりです。


9/30(土)仙台 VORZ BAR 
【 ワンマンライブ 】 Open 19:00 Start 21:00 Charge ¥2000
仙台市青葉区国分町1-6-1 ルナパーク一番町ビル3F TEL 022-224-0312
VORZ BAR HP

コメント

声の行方

2017-09-11 17:47:57 | 日記
河原に立ち寄り飲む。下流へ向かう水の泡、泡が反り上がるのは流れに逆らうからで、下流から上流に向かい流れからの抵抗を受けた小さな水しぶきが水の力から全く解放されて宙に舞い、舞ったしぶきだけがまた水流に落ちて水面を今度は下流に沿って流れながら水に消えた。

雨がポツリ降ってきて、酔いによろけながら帰る途中にさっき見かけた散歩中の柴犬が車庫の横に鎖に繋がれて野良犬がよく見せる目線の様にただ遠くを見ていた。主人はすっかり帰った様だ。

眼鏡をかけた教職員が窓の開かれた教室で書類をトントンと揃えていると、グランドから「いちにっさんしー、にーにーさんしー、さんにーさんしー、よんにーさんしー」十まで続いた中学生野球部の柔軟体操の掛け声が、校舎の壁に跳ね返って、跳ね返る直前の声の残りと一緒に谺していた。

谺して聞こえているのは道を挟んだ私の位置からであって、教職員の耳にはそのようには届いていない。

でもあの柴犬は確かにその様子を見ていたが、さらに視線を遠くへやったのは、耳をピンと立てていたのは、掛け声の消える行方を追っていたのかもしれない。
コメント