なあむ

やどかり和尚の考えたこと

千代亀 4

2016年10月11日 05時00分00秒 | 日記・エッセイ・コラム
貧しさ以上の苦しみ
母一人子一人になった親子を世話する人がいて、昭和十四年七月、アキヱは松林寺十六世三部義靜(ぎじょう)の後添えに入ることになる。義靜五十五歳、アキヱ三十四歳。
千代亀は、兄寿松の死亡に伴って二戸家の戸主となっていたため、アキヱの再婚と共に松林寺に入ってからもしばらくは二戸千代亀を名乗っていた。
その時代、このような素性の親子を見る目がかなり厳しかっただろうことは想像に難くない。しかもお寺である。
旅館の女中が連れ子して寺に入った。死んだ父親の実家は失敗して家をなくして路頭に迷った家だ。ほいど(乞食)の子だ。
そんな冷たい目が九歳の千代亀を刺したに違いない。

後にこんなことがあった。
昭和五十八年十二月九日にアキヱが亡くなった時、姪たちが通夜にきて昔話をしていた。アキヱが東京で働いている間に遊んだ叔父鶴松の娘、つまり千代亀の従姉妹たちだった。
お決まりのこととして貧乏だった頃のことを語り合っていた。どの家も貧乏だった時代ではあったが、特に叔父の家は厳しく、木の根を掘って食べた、などという話をしていたと思う。
長い間黙って聞いていた父が突然立ち上がり「貧乏、貧乏って、お前ら、『ほいど』って言われたことあるか!」と声と体を震わせながら、涙をためて声を荒げた。
父の涙を始めてみたと感じたときであった。

母アキヱの家は確かに貧乏ではあったが、それは、さほど珍しいことではなかった。ところが、父亀之助の出は、家も土地もなくし、娘が子守をしなければならないような状態で、陰で「ほいど」と蔑まれるような家となっていた。
貧乏ならまだいい、貧乏なら我慢もできるが、ひとから差別的に蔑みの言葉を投げつけられた思い出は、深く心を傷つけられた記憶に違いなかった。

松林寺に入って富沢小学校に転校、千代亀にとって四校目の小学校である。皮肉にも、その小学校が建つ土地は、父亀之助の実家、新七家のあった土地だった。
故に富沢は、千代亀の素性をよくよく知っている人々が住む地内であった。
親の言葉をまねた蔑んだ言葉を投げかけられ、仲間はずれやいじめなど、子ども社会の残酷さを味わわずにはいられなかったことと推測される。
千代亀にとって、なぜ学校の子どもたちからそんな言われ方をするのか、初めはきっと理解できないのではなかったか。確かに、父親が早くに亡くなって、家を焼かれ、連れ子として寺にやってきた。今の境遇の原因が父親がいないからだということは理解できる。しかし、十歳前後の子どもにとって、父親の実家の事情までは理解が及ばないことだろう。
恐る恐る寺に入り、学校に通ってみたら、そこも決して安らげる環境ではなかった。

小学校時代の千代亀を知る者は、小さなころはきかん坊だったと教えてくれる。子どもの目から見れば、無邪気にきかん坊の姿に見えたことだろう。しかし、それには、そうならざるを得ない、そうならなければ生きていけない厳しい現実があったのだった。


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