marshalのつぶやき

marshalの日々の出来事や趣味のマラソン・登山の事など色々つぶやいています。

真宗の続き

2010年06月24日 07時22分13秒 | Weblog
先般、富山東別院にお邪魔したお話を書き込みました。今回は、その続きみたいなことを少々・・・・。昨日は、友達が自ら命を立ったので一日中頭から離れず、同窓生からも電話がよくかかりその関連のお話できりがありません。

また、葬儀の内容が悪いとか、僕は何をしていたのか段取りが悪いとか、いつの間にか世話人が僕になっていたりしててんやわんやになってきました。いいがかりわよせ!と、云いたくなるほどに・・・。世話人は、ちゃんと校区の僕の従兄弟がやっていたのですが、気が小さくお人よしで・・・・でも、頭だけは賢いのですが、不慣れだったのでしょう。

最初から、僕が世話人になっていれば、ちゃんと花輪だろうが、弔電だろうが、色々な飾り物とか段取りはすべて出来たのですがね。まー、なんにしろすべてがうまくいくわけがない、プロじゃないのだからね。しかし、気が動転していて弔辞の代表を出すのを忘れていたのはいけなかった。

2、3週間前も僕の後輩が売上不振で、自らの命をたった!享年42歳だった、厄年でもあった。苦労して順風満帆の人生でようやく新居も立ち、会社も大きく成長して見栄えも良くて誰が見ても大成功に見えた。でも、中身までは誰も分からないのである。

葬式の日にちを選ぶのに、友引の日は友を引いて不幸が及ぶからというので、しない習慣があります。が、富山別院さんによれば、頭からそう信じていなくても、万が一にも当たるかもしれないという不安が、こうした習慣を生み出したのだとか。

元々友引というのは、中国の民間暦であった「六曜」の一つで、「相打ち、引き分けで勝負なし、良くも悪くもない日」という意味だったようですね。江戸時代中期頃から、これが暦に用いられて、今日に至っているのでした。

また、それ以前の平安時代から盛んになった陰陽道では、友引は方角を表す意味で、「凶禍が友に及ぼすとする方角」とされました。凶禍は難しいでしょ、大辞林によれば(わざわい)と読みます。
その方角も日によって異なり、特にその日は、その方角に向かっての葬儀は忌(い)まれたのである。

この六曜と陰陽道の説が混同して、幕末頃から友引には葬儀は避ける習慣が広まりました。ですから、友引の意味が元の意味から離れ、語呂合わせ的に変化して、今日のような使われ方になったのであり、全く根拠のないものなのだそうですよ。

真宗の教えから云えば、これらの説はいずれも縁起の道理に背くもので単なる縁起かつぎ・迷信の類いと云わねばなりません。ましてや死者が友を引いて不幸をもたらすなど、それは亡き人を悪霊扱いすることになりかねません。

親鸞聖人の生きられた鎌倉時代は、科学知識なども乏しく、迷信が生活の中に深く入って、人々を苦しめたようでございます。親鸞聖人は、迷信に惑う信仰から民衆を解放してくださった偉いお人なのでした。

仏教の智恵によって、正しい自己とこの世を見つめて、独立自尊の尊い人生を歩んでいきましょう。

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