詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木正樹『壊れる感じ』

2017-03-15 16:03:48 | 詩集
鈴木正樹『壊れる感じ』(思潮社、2017年02月25日発行)

 鈴木正樹『壊れる感じ』の感想を書くのはむずかしい。たとえば「糸」という作品。

天空へ
押し流されているのは
凧ではない

自らの 指を裂きながら
糸を 繰り出す
自らの 重みにたわみながら
糸は 伸びる

何をはらんで 凧は昇るのか?
指が
繋ぎ留める 痛み

 二連目に繰り返される「自らの」ということば。そこに差し挟まれる「裂く」という動詞。自ら傷ついていくもの。そして、その傷を「重み」「痛み」と言い換えることばの動き。ここに「抒情」がある。
 これは、しかし「見慣れた抒情」である。
 でも、「文学」をきちんと踏まえているということもできる。
 で、私は迷ってしまう。どっちに重心を置いて読めばいいのかなあ、と。その迷いが「むずかしい」ということ。

 鈴木のことばは、こういう「見慣れた抒情」になる前の、「見慣れた光景」の方が妙になまなましくて、おもしろいと思う。「本ではなくて」という詩。

会話の途切れた 一瞬
君の
かすかに戸惑うしぐさを
見るのが 好き



コップの 紅
挿絵の少女が 似ていたので
買ってしまった本

 「自ら」が生まれてくる前、というか、「自ら」にたどりつくまえの「見慣れた光景」。こっちのほうが「抒情」に整えられる前のなまなましさがある。
 「抒情」というのは「感情」のようであって、実は「理性(頭)」なのだなあ、と思ってしまう。

君は
テーブルに置いたまま
手に 取るでもなく 読むでもなく
ただ
ページを繰っている

「似ていない!」と 言うが
「似ているよ」

 「自己」と「世界」が完全に「統一」されていない。「自らの世界」になっていない。「他人」がいる。その「他人」(あるいは「もの」)がノイズのように、「透明」に整えられるのを拒んでいる。
 こういう風景の方が、なんといえばいいのか、「現実」というか「現代の詩」っぽく感じる。古い思い出の風景かもしれないが、不思議に「強さ」がある。
 そうか、「現代」は「頭」で整理されることを拒んでいる、「頭」の整理と戦っている時代なのか、と、鈴木の詩とは直接つながらないことを、鈴木の詩から感じてしまう。
 こういう印象も、鈴木の詩の感想を書きにくくしている。

 「洗う」「夕暮れに」という詩は「自ら」の強引さがない、静かな「抒情詩」である。これが鈴木のめざしている詩かどうかはよくわからないが、先に書いたふたつのことが折り合っている感じがする。「洗う」を引用する。

飛び出したまま
の 妻から
「帰る」
と 電話

台所がくさい
モーターが壊れ
濾過できない 水槽
金魚の死体 や 脂

気づいてはいたが
後でやろう 後でやろうと
数カ月が 過ぎていた

真夜中
庭に 水槽を持ち出し
洗う

モーターを買ってこようと 思う
水を もう一度
満たせてみよう と 思う

 「思う」という「動詞」の「主語」は鈴木。言い換えると「自ら」。「自ら思う」の「自ら」が省略されている。無意識になっている。その分「頭」が働いていない。「頭」で世界を統一しよう(透明にしよう、抒情にしよう)という意識が薄いので、なんだか、世界が温かい。
 「夕暮れに」の最終連にも「思う」という動詞が「思い出す」という形で動いている。

原色の トマトや キュウリの前で
もう 若くはない妻との日々が
何年目になるのか 思い出そうとしていた

 「思う」とき、きっと「頭」はわきに退いて「こころ」が動くのだろう。この動くは、あるいは「立ち止まる」であり、「動かない」に通じるかもしれないなあ。
 その「動かないこころ」のなかに入っていって、「あ、こういう時間があるなあ」と感じるということが詩を味わうということかもしれない。
 


壊れる感じ
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