詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

天然コケッコー(★★★★)

2007-08-20 17:31:31 | 映画
 山陰の自然がとても美しい。緑に不思議な陰影があり、穏やかだ。それにあわせるように、登場する少年少女が不思議な美しさを放っている。
 海水浴へ行くため山を歩くシーン。両耳の脇に手のひらを立てて歩く。「山の音がゴーゴー聞こえる」「歩くと山の音がついてくる」「止まると山の音も止まる」。子供たちは山と(自然と)一体なのである。自然そのものなのである。
 山の分校に一人の少年が転校してきたことがきっかけで、少女のこころが動く。他の子供たちのこころも動く。嫉妬も混じり、意地悪もあるのだけれど、それさえも自然そのものなのだ。田んぼには稲が実り、畑にはトマトが実る。逆はない。春の次に夏が来て、やがて秋、冬を過ぎてまた春が来る。逆はない。かつてあったことが今も起こり、積み重なって時間になり、世界になる。そういう自然をそのまま受け入れてゆくのが、この山陰の小さな集落を生きる人々の知恵なのだ。自然の音を聞き、その自然の音に従う。登場する人々は、山の音を聞いたのと同じように、すべての人の「こころの声」を聞く能力を身につけている。そしてその声がきちんとした主張(人間の思想)に変わるまでを、じっと見つめあう。
 主人公の少女の父、転校生の少年の母との間には、ちょっと不自然な過去があり、それが少女のこころに陰影を与える。しかし、その陰影、あるいは不自然な音そのものが、二人の大人だけではなく、集落の大人全員に、山の音のように吸収されてゆく。なにもなかったというのではなく、季節の風が通り過ぎていくのを聞くように、その音は聞き取られ、ひとつの時間となり、過ぎてゆくのである。
 初恋ともいえないような初恋。初恋になるまえの初恋。それがとても美しいのは、やはりそれが自然の一部だからである。初恋をすることは劇的なことではなく、人間が生きていく自然な変化なのだ。自分の思いをいえるようになる、相手の声を聞き取れるようになる。そのとき初恋は成就しているのだが、そんなことは少年少女は気がつかない。ただ一緒にいる時間がうれしい、とそれだけを感じている。うれしい、と声にもださずに。
 しかし、その声は、少女たちが歩きながら山の音を聞いたように、観客にはっきり聞こえる。せりふはないのだが。
 せりふはない、しかし登場人物の声が聞こえる、というのは映画が名作である証拠である。

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