詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

すとうやすお「さやえんどうをつむ」

2016-11-12 09:07:56 | 詩(雑誌・同人誌)
すとうやすお「さやえんどうをつむ」(「光年」150 、2016年09月15日)
 
 すとうやすお「さやえんどうをつむ」は「詩三篇」のうちの一篇。ある詩集を読んでいたとき、ふと思い出した。

うまれたての
やわらかいのをつむ
しおれたはなを
まだつけたのもつむ
つみとりきずのしるで
ひとさしゆびのさきを
ぬらしてつむ
うねをひとめぐりして
こんどははんたいにまわって
かくれていたのをつむ
まめをいれたふくろが
だんだんおもくなる

 文字どおり、さやえんどうを摘むということが書かれている。不思議にいとおしくなる。ことばのなかに、ことばでとらえられているものが、一瞬一瞬、生まれてくる感じがする。
 書き出しの「うまれたての」。えんどうなのだから「うまれる」という表現は「正しい」とは言えないかもしれない。だいたい「うまれたて」(結実してすぐ)ならば、小さすぎて食べるのには不適切ということになる。すとうは「事実」を書いていないことになる。でも、こういう「理屈」は「屁理屈」。結実して、何日かたっていても、それをつもうとしたとき、それは「うまれたて」としてそこにあらわれてくる。この「ことば」と「事実」がいっしょになって、「いま/ここ」に、自然にあらわれてくる。それこそ「うまれてくる」のである。
 「やわらかい」も、そのとき生まれてきた「事実」なのである。「うまれたて」の「事実」なのである。「やわらかい」ということばをつかわなくてもえんどうはやわらかいかもしれない。でも、「やわらかい」ということばで、そのときに「やわらかい」そのものが生まれてくる。何だが、うまれたての赤ちゃんを見るような、どきどきした気持ちになる。
 「しおれたはなを/まだつけたのもつむ」は最初の二行を言いなおしたもの。花の名残がある。「しおれた」は花の死を意味するかもしれないが、それが逆に「うまれたて」を輝かせている。「うまれたて」をあらためて発見、確認している。
 その次の、

つみとりきずのしるで
ひとさしゆびのさきを
ぬらしてつむ

 この三行が特にいいなあ。「つむ」という動詞は「肉体」を含んでいるけれど、最初の四行のなかの「うまれたて」「やわらかい」「しおれた」ということばは、摘んでいる人(すとう)の「肉体」というよりもえんどうの「肉体」を感じさせる。えんどうのみずみずしさが最初の四行で書かれている、と感じる。「つむ」という動詞は、最初の四行ではまだ「脇役」だ。
 それが、この三行で「主役」にかわる。
 「つむ」。そうすると「つまれるえんどう」の方から「反動」のようなものがかえってくる。えんどうが傷つき、しるを飛ばす。それが指先につく。そのしる(滴/飛沫)のようなものを指に残したまま、えんどうを摘みつづける。あたりまえのことなのだけれど、ここに、あ、働いている、肉体が動いていると感じる。えんどうを摘んだときのことを思い出すのである。あ、おぼえている。たしかにそうだった、と思う。このとき、えんどうが「うまれたて」の状態で生まれてきたように、「肉体」が「生まれてくる」。ここに書かれているのは、すとうの「肉体」なのに、まるで私(谷内)の「肉体」として生まれてきて、動いている感じがする。
 えんどうのしるでぬれる。それは「ぬれる」ということばではなかなか言わないものである。「流通言語」の奥でしずかに生きていたことばが、いまたしかに、「うまれて」いるのである。「生まれて」、そして「生き直している」。だから、感動する。「えんどうをつむ」というのは、ありふれたことなのに、それがことばといっしょに「生まれて、生き直している」。
 そのあとも「肉体」がていねいに描かれる。「うねをひとめぐり」と「はんたいにまわって」は同じこと。同じことだけれど、言いなおすことによって「反対」が新しく「生まれてくる」。そして、それは「かくれていた」を発見する。つまり、「生み出す」。発見とは、そこになかったものを見つけることではない。見落としていたものを、「そこにあった」と気づくこと。気づくだけではなく、それを「事実」として「生み出す」ことなのだ。
 「出産」ということばを、あえてつかいたいくらいである。それは「肉体」の「分離/分節」なのだ。そこから、まったく新しい「肉体」が動き始めるのである。

まめをいれたふくろが
だんだんおもくなる

 これは、摘み取ったえんどうをいれる「袋」、すとうが脇に抱えている「袋」が重くなるということを書いているのだが、私には、同時に摘み取られたえんどうの袋(さや)そのものが「充実して」、言い換えると「いっそう実り」、えんどう自体が重くなるようにも感じられる。摘まれることによって、えんどうの生長が始まる。そういうことは「現実」にはないのだが、摘んでいる「肉体」にはそう感じられる。
 すとうは、いままで存在しなかった「えんどう」を生み出している。そして、そのえんどうは、そのときすとうの「肉体」そのものでもある。「いのち」でもある。
 
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