詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

瀬崎祐『片耳の、芒』(2)

2016-10-14 11:13:38 | 詩集
瀬崎祐『片耳の、芒』(2)(思潮社、2016年10月15日発行)

 瀬崎祐『片耳の、芒』のタイトルになっている作品。

地下道の路面は風に荒れていて その隅にちぎりとられ
た片耳が落ちている 片耳はおのれの光を失っていて 
内側からのかすかな音をたてている 耳は内奥へむかう
ゆるやかな弧を抱いている
こまかい繊毛におおわれた暗闇の道をたどるのは どこ
までもひきのばされる指先だ 指先に触れる腫れや窪み
が苛立たしい

 落ちている「片耳」(片方の耳、ということだろうか)。それは「内側」に「音」をもっている。「音」を「抱えている」。それが聞こえてくる。「音を立てている」と感じる。
 このとき。
 その「音」を聞いているのは、だれ? その耳をみつけた、だれか。仮に瀬崎と考えてみようか。その瀬崎が聞いているのか。
 でも、これはあまりおもしろくない。
 私は「落ちている耳」が、その耳の奥から聞こえてくる音を聞いているのだと読みたい。なぜ、そんなものを聞いてしまうのか。「おのれの光を失って」いるからだ。「おのれの光を失う」って、どういうこと? よくわからないが、ないはずの「耳の奥」(なんといっても、頭から切り離されて落ちているのだから、「奥」なんて、ありえない)から聞いてしまうというような「矛盾」が、「理性(人間を導く光)を失う」という具合に読み取れるのである。
 そうすると「内奥」というのは「光」の逆のもの、「闇」ということになる。
 だからこそ「暗闇の道をたどる」ということばも出てくるのだが。
 その「たどる」という「動詞」の「主語」に「指先」というものが突然出てくる。ここが、とてもおもしろい。
 「たどる」という「動詞」の「主語」になりうるものに何があるだろう。「意識」とか、「視線」というものがある。でも、それは抽象的。瀬崎は、そういう「抽象」よりも具体的な「肉体」を好んでいる。
 「指」が「耳の内奥/暗闇」を「たどる」。つまり、奥へ入っていく。「弧」とか「腫れ」とか「窪み」というのは、何かしら「耳の形」(立体的な形)を思い起こさせる。その複雑な、曲線的な形を、「指」でたどる。
 何のために?
 「奥」を見つけ出すためかもしれないが、私は、ちょっと脱線する。「指」が「耳の曲線」をたどるというのは、「耳の曲線」に触れること。まさぐること。そのとき、「耳」は「膣」のように、秘密の「音」を奏でないか。反応しないか。
 瀬崎は、そんなことは書いていないのだけれど、私は「誤読」するのである。

 そして二連目。

片耳はいなくなったはずの人々の声を聞きとろうとして
いる 声音であのときのあの人だと 今さらながらに気
づく あのときにあの人はこんな声を発していたのだっ
たと 今さらながらに気づく
しかし あの人がなにへ誘っていたのかを聞きとること
は もはやできない

 「あの人の声」。それは「あの人の指」のようでもある。指で耳をたどる。そのとき、その人は「声」を出さなくても、触れることで「声」に出さずとも伝わる何かを伝えている。と、書けば、きのう書いたセックスのつづきになってしまうのだが。「耳」は「膣」そのものになって、「指」を奥へ、内部へと誘い込むのだ。
 うーん。
 どうしても、私は、そんな想像をするのである。「指」が「耳」に触れながら、その「触れ方」で伝える欲望。それは「ことば(声)」よりも直接的に「耳の内奥」にまでひびく。「内奥」にとどまりつづける。あるいは、「内奥」で呼び続ける。そして、そこに「交換/交感/交歓」が始まる。
 その「指」を失ってしまったいまになって、その「欲望」に「耳」は身を寄せている。「欲望の声」を聞いている。その声は、とりもなおさず、「耳」自身の(つまり自分自身の)声でもある。「あの人の声」である以上に、自分の声。
 一連目では「耳」と「指」は「自分のもの」。しかし、二連目では、その「自分のものであるはずの指」が「あの人の指」に変わる。変わるのだけれど、一連目のことを思うと、それは自分の指。自分の指が「あの人の指」になって、「自分の耳」に触る。そうすると、そこから「音楽」がはじまる。「あの人の声」と「自分の声」が誘い合う。
 肉体が触れ合うということは、肉体の区別がなくなることだ。区別があるから触れ合うことができるのだが、触れてしまえば、どこからどこまでが自分の肉体かわからない。欲望は、どこからどこまでが「あの人」のものであり、どこからどこまでが「自分のもの」か、よくわからない。
 あ、これは変? 瀬崎は男だから、「耳」を自分の「膣」だと感じるとき、性が逆転する? 矛盾する。ありえない? 理性的に考えればそうなのかもしれないが、実際にセックスが始まってしまえば、二つの「肉体」を切り離して別々に考えてもしかたがないだろう。「触る」ことは「触られる」こと。相対的な区別がなくなること。
 それがセックスというものだろう。

 瀬崎の詩は、芒で耳を切った記憶、そこから耳が切り落とされたという幻想へとつながって動いているのだが、そこに「指」がまぎれ込むことで、なにかとてもあやしいものになる。「切り落とされ」孤独になってしまったもの、孤立してしまったものは、「切り落とされる前」の「つながり」を探して動く。
 「肉体」は「動く」。
 そして「肉体」を誘い込む「動詞」が、「肉体」を他の「肉体」と結びつけ、動かしてしまう。交わらせてしまう。あらゆる「肉体」は、どこかでセックスをしている、と感じさせる。
 セックスを直接書かないことで、逆に「肉体」からセックスは切り離せないものであるということを、強く感じさせる。小さな「動詞」で。たとえば、この詩では「たどる」という「動詞」で。
 「たどる」は「聞き取る」という「動詞」にかわり、さらに「気づく」という「動詞」にかわる。その「動詞」を結びつけているのは、ひとつながりの「肉体」である。そんなことを思う。

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