詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金田久璋『鬼神村流伝』

2017-06-19 09:05:44 | 詩集
金田久璋『鬼神村流伝』(思潮社、2017年04月15日発行)

 金田久璋『鬼神村流伝』の「声」は非常に強い。誰にでも強く聴こえるかどうか、実はよくわからないのだが、私には強く聴こえる。ことばの背後に、ことばにととのえられるまえの「声」がひしめいているのを感じる。
 抽象的に書いてもしようがないので、私が「身近」に感じる「声」について書いてみよう。
 「魔除け」という作品は、誰かが死んだあとのことを書いている。夜伽というのか、遺体をまもって寝ずの番をする。「魔物」が遺体に入り込むといけないので「刃物」を遺体の身につけさせることになる。「元庄屋」は「銘のある脇差」を貸してくれたが「ねっからの水飲百姓」には落ち着かない。それを返して、「日頃愛用の稲刈り鎌」を遺体の胸の上に置く。そう書いたあとの二連目。

少し錆が噴き出した稲刈り鎌は
よく手に馴染んで
泥にまみれ 尚も
血と汗と唾が沁み込み
今にも組んだ手を解(ほど)いて
起き上がりそうにも見えた

 「稲刈り鎌」の描写が強い。実際に鎌をつかったことのある人の描写である。「泥にまみれ/血と汗と」が「沁み込み」は想像でも書けるかもしれない。しかし、そこに「唾」というひとことを付け加えられるのは鎌で稲を刈ったことがある人だけである。
 力を込めるために、ひとはときどき唾を手に吐きつける。唾は、きっと「気力」のようなものなのだ。
 私も水飲み百姓の子供なので、鎌で稲刈りをしたことがある。子供だったから、手に唾を吐いてまで懸命に仕事をしたことはないが、父や母が、あるいは兄たちが手に唾を吐いていたことをふと思い出したのである。ほかの野良仕事でも同じである。手に唾を吐いて、力を込める。それが釜の柄の部分にしみこんでいる。握ると「手」そのものの感触が伝わってくる。父のつかっていた鎌をつかむと父の手が、兄のつかっていた鎌をつかむと兄の手の感触がつたわってくる。「よく手に馴染んだ」とは、鎌が「手」そのものになるということでもある。「肉体」が伝わってくる。
 金田は、私が書いたようなことをくどくどとは付け加えていない。金田にとってはわかりきったことだから書かないのだろう。私は、わかるが、それは「わかりきったこと」ではない。かすかに覚えていることだ。そのかすかに覚えていることを金田のことばはまざまざと思い出させる。その「声」のなかに、「水飲み百姓」の「声」がしっかり根付いているからである。ひとりの「声」ではない。「水飲み百姓」の多くの「声」がことばを支えている。その「多くの声」が聴こえてくる。それが、私のかすかに覚えていることを、鷲掴みにして、ぐいと広げる。多くの「水飲み百姓」の肉体の動きとして見えてくる。
 鎌を持たされている遺体も「水飲み百姓」なのだろう。だから、その胸元に鎌を置かれたら、その遺体は生き返り、また鎌を握りそうに見えてくる。遺体を見ながら、生きている姿、生そのものが見えてくる。

 「半分(モワチエ)」の一連目は、こうである。

急に尿意を催し
峠下の廃屋のかげで ひと息つくたまゆら
湯気をあげる漏斗状の雪穴に
庇の氷柱(つらら)を突き刺す さしてもない戯れの
くぐもる空虚に想像力のかたちを与えただけ
そばに大根があれば大根 ニンジン
ゴボウなりを挿し込んだだけのたまさか
リビドーの無明の身震いに
吾が身の成り余れる処を以ちて
汝が身の成り合わざる処に刺し塞ぎつつ

 積もった雪のうえに小便をする。穴があく。その穴に氷柱を突っ込む。大根でもニンジンでもゴボウでもいい。これは性交を思い起こさせる。ここから金田はセックスを思い出す。穴に性器を突っ込む。こういう書き方は女性には不愉快かもしれないが、雪国で育った男なら、子供時代にそういう「妄想」をするものである。何人かがあつまれば、そういう遊びもする。金田のことばは、そういうところとつながっている。そして、そこに「強さ」がある。ひとりで身につけたことばではない。また「本」を読んで身につけたことばでもない。ひとと一緒に行動し、他人の「肉体」をも引き受けながら身につけたことばである。他人の「肉体」を引き受けるとは、自分も他人と同じ「肉体」であるということを受け入れることである。「肉体」はそれぞれ別々のものであるが、どれも「同じ」生き方をする。「生きる」過程で「同じ」になる。そういうことを引き受ける。そういうことを引き受けた人間の「強さ」がことばの「奥」にある。
 この詩には「リビドー」とか「無明」という「頭」で学ぶことばも出てくるが、金田の場合、「頭」のことばを「複数の肉体」でくぐり抜けて、そのうえで動かしている。言い換えると「頭」のことばをつかいながら、「頭」のなかでことばを動かしていくのではなく、それを「肉体」でたたき壊していく。「頭のことば」以前に引き戻していく。
 動き回るのは、あくまで「頭」とは無縁の、「肉体」の感覚そのものである。
 この詩、この一連に限定して言えば、穴へペニス(氷柱状のもの、大根、ニンジン、ゴボウのようなもの)を突っ込む、穴があれば突っ込むという動詞があり、そこにセックスする肉体が重なってくる、欲望が燃え上がる、という感覚である。誰ものがもっている「肉体」を、その「肉体」が動いた瞬間に引き戻し、そこから詩を動かしている。
 こういうことばは「強い」。


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