詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

青山かつ子「もんじゃ焼き」、高田昭子「ててっぽっぽう」

2016-09-18 11:55:52 | 詩(雑誌・同人誌)
青山かつ子「もんじゃ焼き」、高田昭子「ててっぽっぽう」(「repure」22、2016年04月16日発行)

 青山かつ子「もんじゃ焼き」の全行。

-お兄ちゃんの戒名○○○○なの-
ポツリとのりちゃんがいった
中川の土手を歩きながら

(ずっと上流でお兄さんは入水した)

すすきがゆれ
ガラスの空に飛行機雲がのびている

-のりちゃん もんじゃ焼きやろうよ
 切りイカいっぱい入れて-

記憶の土手はずっとつづいていて
中川の鉄橋をわたるたびに
戒名を告げたさびしいこえがきこえてくる

十五のわたしは
あのとき言葉をもっていなかった
のりちゃんの好きな
もんじゃ焼きのほかには

 「言葉」が最終連に出てくる。そして、その「言葉」は「もっていなかった」という動詞と一緒に動いている。「ことばを/持つ(持たない)」。「主語」は「わたし」。「ことば」はつかうものだが、そのつかえることばというものは「持っている」ことばでなければならない。
 ちょっと、まどろっこしく、めんどうくさいことを書いているだが……。
 ひとは、ときどき「持っていないことば」をつかうことがある。きのう書いた城戸朱理批判のつづきで書くと、城戸は「知っている」けれど「持っている」とは言えないことばで「論」を転換した。「神」が、それである。自分で「持っていない」(これを、私は「肉体化していない」と言うのだが)ことばで語るから、途中でその「神」が「キリスト教/イスラム教」の「神」から「日本の古来の神」にすりかわっても、気にならない。これは、ことばは、「持っていなくてもつかえ」るということ、ことばをつないでしまえばいつでも「論理」のように見えてしまうということ意味する。そんな「肉体化されていない」ことばで書かれたものを追いかけても、味気なくなるばかりである。
 この青山の詩は違う。
 友達の「のりちゃん」が悲しんでいる。なんとか慰めたい。でも、どうやって慰めていいか、わからない。わかる(覚えている)のは、のりちゃんがもんじゃ焼きが好き、というとだけ。いっしょにもんじゃ焼きをつくって食べたとき、のりちゃんは楽しそうだった、ということだけ。そののりちゃんは、切りイカの入ったもんじゃ焼きが好きなのだ。それも、覚えている。だから、自分の持っていることば、覚えていることばを、全部、つかって言う。

-のりちゃん もんじゃ焼きやろうよ
 切りイカいっぱい入れて-

 それは「十五の青山」のことば。あのとき、それ以外のことばを持っていなかったと青山は書いている。いまは、どうか。もっと、のりちゃんを慰めるにふさわしいことばを持っているか。もっと「大人らしい」ことばを青山は、いまは、知っているかもしれない。しかし、それは「知っている」であって、やっぱり「持っている」とは言えないだろうなあ。大人になって「知った」ことばを、のりちゃんに向かって言うということは考えられない。
 のりちゃんを慰めるには、「もんじゃ焼きやろう」しかないのである。ことばは、常に、人と人との間で動き、生きる。他のことばでは、のりちゃんがうれしい顔と結びつかない。いまとなっては、その「もっじゃ焼きやろう」は、悲しいというか、切ないというか、なんともいいようのないことばなのだが、言うとなったら、やっぱり、そのことばだ。ことばは、あの時の青山とのりちゃんの「肉体」を持って、いまも、生きている。
 五連目の「記憶の土手はずっとつづいていて」の「ずっとつづいていて」は「土手」がどこまでもつづいていると読むこともできるが、その「記憶」がずっとつづいているとも読むことができる。 記憶とは「肉体」のなかにいきているもの、「肉体」が生きているとき、「記憶」も生きている。
 ことばは、何かを、ずっとつづけるものなのである。何かを、ずっと生かしていくものなのである。この「持続」を「持っている」という。「頭」で持つのではない。「肉体」で「持つ」のである。そのとき「肉体(いのち)」はつづいていゆく。



 高田昭子「ててっぽっぽう」は、永瀬清子「明け方に来る人よ」の山鳩の鳴き声と父の思い出を絡めて書いたもの。

あの日
父は無花果を食べていた
庭の無花果の木では
ててっぽっぽうの声がする
その時初めて
ててっぽっぽうと聴こえた
かの詩人と初めて繋がった思いを
父に告げた

父は「そうか」と言って
黙って無花果を食べていた
しばらくしてから
「ふるさとでは、ででっぽうと言っていたな。」と言った
濁音と清音が息づく様々なふるさとの言葉
南から北へとのぼりながら
言葉は素朴な濁音をまとってゆくようだった
あの日から
父は北の古里ばかりを恋うていた

 
 清瀬は「ててっぽっぽう」という「音/声/ことば」を「持っている」。その清瀬が持っているものを高田は聞いた。そして「繋がった」。高田は「繋がった思い」と書いている。これは清瀬が詩を書いたときの「思い」、詩に込めた「思い」のこと。つまり、心底「理解した」ということだろう。しかし、繋がったのは「思い」だけではないだろうと、私は思う。「耳」が、つまり「肉体」がつながったのである。同じ「肉体」を持ったのである。そして、このとき高田は「ててっぽっぽう」ということばを「持った」のである。「肉体」にしたのである。山鳩は正確には何と鳴いているかわからないが、それを高田は「ててっぽっぽう」と聞くのである。
 この「肉体」の反応に対して、父の「肉体」が動く。「ふるさとでは、ででっぽうと言っていたな。」耳が反応し、持っていた(持っている)ことばが動く。ててっぽっぽうもででっぽうも山鳩の鳴き声。同じものが違う肉体によって違う音(ことば)になる。違うものになるけれど、それが「同じ」であることがわかる。「肉体」は、何か、そういう「違い」を飲み込んで動いていく。そして、「繋がる」。
 「繋がる」というのは「広がる」ということ。そして、その「広がる」は、外へ(肉体の外へ)広がるだけではない。「肉体」の「内部」をも広げる。つまり豊かにする。
 この「広がり」や「豊かさ」は、説明しにくい。
 ここに書いてある、これがそうだよ、というようにしか言えない。高瀬はててっぽっぽうと言い、父はででっぽうという。その両方を高田は聞いてつなげる「耳」を持っている。どちらも「正しい」。
 青山の詩にもどれば(詩とつなげれば)、肉親を亡くした友人に「もんじゃ焼きやろうよ」と言うことは、客観的に(?)見れば変である。けれど、「ことば」というのは表面的な意味だけではなく、それといっしょに「肉体」を持っている。「頭」と「頭」をつなぐのではなく、「肉体」と「肉体」をつなぐことばというものがある。ことばのなかで「肉体」が抱き合う、抱擁するのである。ことばのなかで、人間が「はだかになる」とも言える。
 こういう「正直」なことばが、私は好きである。
 高田の詩について付け加えると、父は死んでいる。しかし「ででっぽう/ててっぽっぽう」という声として、いまも高田の「耳」に生きている。人間の肉体は消えても、「ことばの肉体」は生き続けるものなのだ。

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