入沢康夫
『「月」そのほかの詩』(1977年)。
「碑文−−一九七〇年の死者たちに」。最初の断章におもしろい部分がある。
「みみず脹れ」を鶏がついばむ? 鶏はミミズをついばむことはあっても「みみず脹れ」をついばむことはない。「みみず脹れ」からミミズへと意識が動くのはことばで考える人間だけである。
ここに書かれているのは簡単に言えばことば遊びだが、その遊びのなかには、入沢がそのことば遊びを書かずにはいられない理由がある。
ことばは現実をとらえるのではなく、ことばは現実を間違えてしまうきっかけとなって働く。「誤読」「誤解」はことばによって起こる。ことばなしには「誤読」「誤解」はなく、その「誤読」「誤解」のなかには人間だけが可能な何かがある。
現実を離れ、夢想する力、想像する力。
想像力を定義して現実をねじまげる力と読んだのはバシュラールだったが、現実をねじまげて、ありえない世界をつくりだす力のなかには何かがある。人間の本質のようなものがある。そういうものを入沢は見据えている。
入沢自身の作品のなかから、この「想像力」について語った部分を引用すれば、「それ故」という断章のなかの次の部分だろうか。
布は糸を糸を織り合わせてつくる。ある布に糸以外のもの、「未知の惑星と死んだ友人たちの淋しげな影」を織り合わせるというようなことは現実にはできない。どんなに「強引」にこころみても、そういうことはできない。それはことばのうえで、想像力によってのみ可能なことである。したがって、その結果として(「そうすることによつて」と入沢は書いている)、「《嘆きの母親》を浮き出させ」るというのも、ことばの上でのことである。
ことばはいつでも現実ではできないことを語ることができる。
なぜだろう。
なぜ、現実ではないことを語りうるのだろうか。実際に見たこともない、体験したこともないのに、それがありうるとなぜことばは語りうるのだろうか。現実にはありえない夢想を語るとき、ことばは何を根拠にしているのだろうか。
根拠になるのは自分の願望である。夢である。自分にはできないけれど、そうあって欲しいと思うこころである。その願望、祈りの強さを根拠にして、人は現実にはありえないことを語る。
そうであるなら、「誤解」「誤読」によってつみかさねられることば、その結果として浮かび上がる世界は、やはり人の願望、祈りによって支えられていることになりはしないか。
「誤解」「誤読」の指摘は、そうした「誤解」「誤読」を否定するため、現実へと認識を軌道修正するために必要なのではなく、「誤解」「誤読」のなかから、人間の根源的な願望、祈りを明確にするために必要なのだ。
人間の根源的な願望、祈りは、権力を持たない人間の内部に「誤解」「誤読」の世界を構築する。そうすることで人間の願望、祈りを守ろうとする。「誤解」「誤読」は人間にとって絶対的に必要な「聖堂」のようなものである。「誤解」「誤読」という「聖堂」のなかで、人間はこころを育ててゆく。
その「聖堂」のひとつが、たとえば「詩」と呼ばれる文学である。
「碑文−−一九七〇年の死者たちに」。最初の断章におもしろい部分がある。
その赤い毛がわれらの心にみるみる降りつ
もつて縦横にみみず脹れを作るのだが 熱病の鶏たち 自
らの糞に汚れた鶏たちは 今度はそのみみず脹れを啄まう
として夢中でかけまはり
「みみず脹れ」を鶏がついばむ? 鶏はミミズをついばむことはあっても「みみず脹れ」をついばむことはない。「みみず脹れ」からミミズへと意識が動くのはことばで考える人間だけである。
ここに書かれているのは簡単に言えばことば遊びだが、その遊びのなかには、入沢がそのことば遊びを書かずにはいられない理由がある。
ことばは現実をとらえるのではなく、ことばは現実を間違えてしまうきっかけとなって働く。「誤読」「誤解」はことばによって起こる。ことばなしには「誤読」「誤解」はなく、その「誤読」「誤解」のなかには人間だけが可能な何かがある。
現実を離れ、夢想する力、想像する力。
想像力を定義して現実をねじまげる力と読んだのはバシュラールだったが、現実をねじまげて、ありえない世界をつくりだす力のなかには何かがある。人間の本質のようなものがある。そういうものを入沢は見据えている。
入沢自身の作品のなかから、この「想像力」について語った部分を引用すれば、「それ故」という断章のなかの次の部分だろうか。
もしもこのやうな
時にわれらが一枚の布を得てそこに未知の惑星と死んだ友
人たちの淋しげな影を強引に織り合わせ さうすることに
よつて一人の《嘆きの母親》を浮き出させようとしてゐる
といふならば
布は糸を糸を織り合わせてつくる。ある布に糸以外のもの、「未知の惑星と死んだ友人たちの淋しげな影」を織り合わせるというようなことは現実にはできない。どんなに「強引」にこころみても、そういうことはできない。それはことばのうえで、想像力によってのみ可能なことである。したがって、その結果として(「そうすることによつて」と入沢は書いている)、「《嘆きの母親》を浮き出させ」るというのも、ことばの上でのことである。
ことばはいつでも現実ではできないことを語ることができる。
なぜだろう。
なぜ、現実ではないことを語りうるのだろうか。実際に見たこともない、体験したこともないのに、それがありうるとなぜことばは語りうるのだろうか。現実にはありえない夢想を語るとき、ことばは何を根拠にしているのだろうか。
根拠になるのは自分の願望である。夢である。自分にはできないけれど、そうあって欲しいと思うこころである。その願望、祈りの強さを根拠にして、人は現実にはありえないことを語る。
そうであるなら、「誤解」「誤読」によってつみかさねられることば、その結果として浮かび上がる世界は、やはり人の願望、祈りによって支えられていることになりはしないか。
「誤解」「誤読」の指摘は、そうした「誤解」「誤読」を否定するため、現実へと認識を軌道修正するために必要なのではなく、「誤解」「誤読」のなかから、人間の根源的な願望、祈りを明確にするために必要なのだ。
人間の根源的な願望、祈りは、権力を持たない人間の内部に「誤解」「誤読」の世界を構築する。そうすることで人間の願望、祈りを守ろうとする。「誤解」「誤読」は人間にとって絶対的に必要な「聖堂」のようなものである。「誤解」「誤読」という「聖堂」のなかで、人間はこころを育ててゆく。
その「聖堂」のひとつが、たとえば「詩」と呼ばれる文学である。











