詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高貝弘也「紙背の子」

2016-10-17 08:28:30 | 詩(雑誌・同人誌)
高貝弘也「紙背の子」(「午前」10、2016年10月15日発行)

 高貝弘也は、私の感覚では「名詞」の多い詩。あるいは「動詞」が省略されている詩、ということになる。「紙背の子」。原文は「ルビ」があるのだが、引用では省略。(行間も複雑に配慮されているのだが、正確に引用できそうにないので、複数行を引用するときは一行空きで引用する。)

--とてもちいさい草の泡だちが、遠い汐のように…

 この書き出しの一行。「遠い汐のように…」と「動詞」は「…」で書かれている。補うならなんだろう。「引いて行く」と、すぐに思い浮かぶ。潮は引くだけではなく満ちるという「動詞」も可能だが、「ちいさい」「泡だち」「遠い」が「満ちる」よりも「引く」に通じると思う。「しお」をサンズイに「朝」ではなく「夕」と書いていることも、そう感じさせる。「朝」なら光が満ちてくる。「夕」なら消えていく。いままでに読んだ「文学/ことばの伝統」が影響して、そう読んでしまうのである。
 高貝のことばは、こういう「無意識」に呼びかけてくる。高貝のことばは「文学の肉体」を持っている、ということができると思う。
 「名詞」と「動詞」の関係だけではない。

肌理こまやかな 腿

熟れすぎた にがい果肉は、

水陽炎 白壁の背ろへ

 「肌理こまやかな」のあとには「脛(すね)」ということばは絶対にこないだろう。
 女の肉体、それもなんとなくセックス(欲情)を誘うことばを呼び寄せる。そして「腿」が呼び寄せられれば、どうしたって「桃」へと連想が広がる。熟れ過ぎて苦くなる果肉は桃とはかぎらないが、前の「肌理こまやかな 腿」は「桃」を、さらには「腿につながる女の肉体/尻」なども呼び寄せる。さらに「肌理こまやかな」は「白壁」の「白」へ、(白壁自体も泥壁に比べるときめがこまかい)、「腿/桃/尻」は「背」へと視点を自然にずらしていく。
 「形容動詞」「名詞」が自然につながっていく。その「自然」のなかに「文学の肉体」がある。
 で、この一連の「名詞」とつながる「動詞」は何か。まだ書かれていない。ここまで読んできて「動詞」をむりやり探せば「熟れすぎた」の「熟れる」と「過ぎる」であるが、それは「果肉」を修飾することばとして働いていて、「述語」としての「動詞」はまだ出てきていない。書かれていない。
 書かれていないけれど、何となく一行目で想像した「引いていく」ということばに近いものを感じる。欲情は満ちてくるものだが、この詩の場合、詩はひそやかに隠れて動いているので、強く前面には出てこない。どこか「抑制されている/引いている」感じである。そこへ「背へ」だから、なおのこと「隠れる」ということばも思い浮かぶ。
 そういう「連想」を次の行が開く。

(逃げていく、緯糸としての)

 この一行は「緯糸として逃げていく」という文の「倒置法的」一行として読むことができる。括弧のなかに入っているのだから、それまでのことばとは関係がないもののようにも思える。しかし「逃げていく」という「動詞」が「白壁の背ろへ」と強い力で結びついている。
 そうか、「隠れる」ではなく「逃げていく」か。そして「逃げていく」なら「汐」の「引いていく」も「逃げていく」と言いなおすことができるなあと感じる。
 このとき、私は、自分の中の「文学のことば/文学の肉体/ことばの呼吸」がととのえられていくのを感じる。「汐が引いていく」ではなく「汐が逃げていく」とつなげると、「叙述」が突然「詩的」にかわる。普通の口語ではつかわない「言い回し」が、ふっと出てきて、しかも落ち着く。
 この感じは、きのう読んだカニエ・ナハの「馬引く男」にはなかったものだ。
 高貝のことばには「具体的」な「動詞」、「名詞」としっかり結びついた「述語」としての「動詞」がないにもかかわらず、「動詞」が「肉体」に迫ってくる。「文学の肉体」なのだが、どこかで「生身の肉体」にも重なるものがある。たぶん汐が引くのを見たことがある、だれかが壁の背後に逃げて隠れるのをみたことがある、あるいは自分自身が隠れたことがある、ということが影響しているのだと思う。「いま/ここ」から違う場へ動いていく。その運動を描写する「動詞」として「逃げる」ということばがある、ということを「文学の肉体」としてだけではなく「自分自身の肉体」としても確認する。そういう「言い方」で「肉体」をとらえ直すことができると気づく。
 この「気づき」のなかに「詩」があるのだろう。発見があるのだろう。あ、これを知っていると思い出すときの、静かな感動がある。

ふいに 一滴の、かげ

--ああ 三角座りの、あの子よ

 この「ふい」の転調。しかし、転調といいながらも、「一滴」のなかには「水陽炎」の「水」があり、呼応している。「かげ」のなかには「逃げていく/逃げていった」ものの「おもかげ」がある。消えることによって、逆に、ふっとそこに存在していたものとして「かげ(実像ではない)」ものが見える印象。
 「三角座りの、あの子」からは「腿」がのぞいてみる。「あの子」、たぶん幼い少女。幼いから「熟れすぎた」肉体ではないのだが、それを見ている詩人は「熟れすぎた」おんなを知っているから、幼い少女のまぶしい肌からも、逆の幻として「熟れてゆく」ものを見るのである。
 時間が、一瞬にして、交錯する。その「目眩」のような、瞬間。その「瞬間」を「逃げていく」ものがある。実際の「時間」の流れを「縦糸」とすれば、それは「緯糸」か。
 詩はつづいている。

節ぶしに ほそい微光が、

(そのそばで、しろい苞がほぐれて)

悲しげな口もとの ピロピロ笛はもう…

 「ほそい微光」「ほそい」と「微」の二重形容。少女の腿(桃/尻)の幻の輝きが一瞬だったことを強調する「二重形容」といえるだろう。
 「逃げていく」は「ほぐれる」ということばのなかにつながっていく。「集まっていたもの」が「散るように逃げていく」。「集まり」が「ほぐれる」。それは集まり(充実していたもの/たとえばしっかり実っていた桃の果肉)が「ほぐれ」うしなわれてしまうことでもある。
 「ピロピロ笛はもう…」と、最後の「動詞」はやはり省略されている。しかし、ここには「失われた」という「動詞」が自然に入るような気がする。「消えた」かもしれない。「失う」と「消える」は同じ。「遠く去る(遠く逃げる/遠く引いていく」汐ということばにもつながる。

 高貝の詩を、私はいつも、こんなふうに「文学の肉体/ことばの肉体」をととのえなおしてくれるものとして読んでいる。






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