監督 ジャン=リュック・ゴダール
何が新しくて何が古いのかわからないが、あいかわらず映像が美しい。色が美しい。断片をつなげれば、そのつなぎ方のなかに見た人それぞれのストーリーが組み込まれる。つまりゴダールに引用される形になるのだが、あ、めんどうくさいねえ、こういうことを書くのは。
だから、違うことを書く。
最初の方、男と女が静かにいがみあっている。--しかし、この静かさは、きっと彼らの「過去」が、つまりストーリーがわからないからそう見えるだけで、ほんとうは激烈すぎて激しさがわからないのかもしれない。激烈さを抑えている感情、精神の苦悩がわからないだけなのかもしれない。でも、それはどうでもいいことなのだ。映像があり、引用されたことばがあり、それぞれがどんな文脈かわからない。文脈はわからないけれど、そこに映像があり、ことばがあり、それぞれが「くっきり」している。手振れも、ぼやけた光のかたまりも、あ、映像がぶれている、光がにじんでいるということが「くっきり」とわかる。その「くっきり」がわかるということろに、詩、というものがある。詩、とは、何かわからないけれど、ある瞬間が「くっきり」見えることである。「くっきり」の異様な感じが、詩、なのである。
ゴダールは映画で小説ではなく詩を書いているのである。
真ん中あたりは、そこだけストーリーっぽいものがある。フランスの田舎町。ガソリンスタンドの経営をめぐって家族が対立している。それをアメリカ人(?)が取材にやってくる。映画をとろうとしている。そこで繰り広げられる瞬間的な会話もおもしろいといえばおもしろいが、まあ、ことばは映像を映像の文脈から引き剥がすための「音楽」としてあるだけだから、「意味」がわからなくてもいいのだ、というか、適当に聞いていればいいのだと思う。(私はわからないものに対しては、とても寛容なのである。わかりたいとは思わないのである。)で、私にわかることはといえば、たとえばガソリンスタンドの屋根の丸いカーブの美しさ。どうしてそこにいるのかわからない黒いロバと、なんとかという羊と馬のまじったようなもこもこした動物。そして、黒いロバの黒い毛と、青い首輪じゃなくて、鼻輪じゃなくて、ようするにロバの顔の周りについている紐のようなものの美しい対比。あるいは、男の子が母親にまるで恋人がじゃれるみたいにじゃれる時間、それをゆるしている母親のなかの「女」の時間--というような、ことばから切り離されてそこにある充実の美しさである。
こういうを「もの」を見ていると、芸術とは結局「文体」だと思う。思想とは「文体」だという思いが強くなる。ゴダールの映像文体(映像を切り離すためのノイズとしての引用、ノイズとしての音楽であることばが常に介入する構造)、そのゆるぎなさ、その「存在感」が「思想」であることがわかる。他人の「思想」とは、結局、私には「わからない」ものなのだが、その「わからない」ということは、別のことばで言いなおすと、私に対して「考え直せ」と迫ってくる何かなのである。ここにある「もの」に対して、おまえは何を言うことができるか--そう問いかけてくるものが「他人という思想」であり、詩である。
私がゴダールに向き合って言えることばはとても少ない。どの映像を見ても美しいと感じる。ゴダールの映像で「醜い」と感じたものはない。ことばはいつでも映像を世界から切り離すノイズであり、音楽である、と感じてしまう。その瞬間、私は、いままでみたことがない映像と出会っている、と感じる。この感覚が、私にはとても気持ちがいい。
何が新しくて何が古いのかわからないが、あいかわらず映像が美しい。色が美しい。断片をつなげれば、そのつなぎ方のなかに見た人それぞれのストーリーが組み込まれる。つまりゴダールに引用される形になるのだが、あ、めんどうくさいねえ、こういうことを書くのは。
だから、違うことを書く。
最初の方、男と女が静かにいがみあっている。--しかし、この静かさは、きっと彼らの「過去」が、つまりストーリーがわからないからそう見えるだけで、ほんとうは激烈すぎて激しさがわからないのかもしれない。激烈さを抑えている感情、精神の苦悩がわからないだけなのかもしれない。でも、それはどうでもいいことなのだ。映像があり、引用されたことばがあり、それぞれがどんな文脈かわからない。文脈はわからないけれど、そこに映像があり、ことばがあり、それぞれが「くっきり」している。手振れも、ぼやけた光のかたまりも、あ、映像がぶれている、光がにじんでいるということが「くっきり」とわかる。その「くっきり」がわかるということろに、詩、というものがある。詩、とは、何かわからないけれど、ある瞬間が「くっきり」見えることである。「くっきり」の異様な感じが、詩、なのである。
ゴダールは映画で小説ではなく詩を書いているのである。
真ん中あたりは、そこだけストーリーっぽいものがある。フランスの田舎町。ガソリンスタンドの経営をめぐって家族が対立している。それをアメリカ人(?)が取材にやってくる。映画をとろうとしている。そこで繰り広げられる瞬間的な会話もおもしろいといえばおもしろいが、まあ、ことばは映像を映像の文脈から引き剥がすための「音楽」としてあるだけだから、「意味」がわからなくてもいいのだ、というか、適当に聞いていればいいのだと思う。(私はわからないものに対しては、とても寛容なのである。わかりたいとは思わないのである。)で、私にわかることはといえば、たとえばガソリンスタンドの屋根の丸いカーブの美しさ。どうしてそこにいるのかわからない黒いロバと、なんとかという羊と馬のまじったようなもこもこした動物。そして、黒いロバの黒い毛と、青い首輪じゃなくて、鼻輪じゃなくて、ようするにロバの顔の周りについている紐のようなものの美しい対比。あるいは、男の子が母親にまるで恋人がじゃれるみたいにじゃれる時間、それをゆるしている母親のなかの「女」の時間--というような、ことばから切り離されてそこにある充実の美しさである。
こういうを「もの」を見ていると、芸術とは結局「文体」だと思う。思想とは「文体」だという思いが強くなる。ゴダールの映像文体(映像を切り離すためのノイズとしての引用、ノイズとしての音楽であることばが常に介入する構造)、そのゆるぎなさ、その「存在感」が「思想」であることがわかる。他人の「思想」とは、結局、私には「わからない」ものなのだが、その「わからない」ということは、別のことばで言いなおすと、私に対して「考え直せ」と迫ってくる何かなのである。ここにある「もの」に対して、おまえは何を言うことができるか--そう問いかけてくるものが「他人という思想」であり、詩である。
私がゴダールに向き合って言えることばはとても少ない。どの映像を見ても美しいと感じる。ゴダールの映像で「醜い」と感じたものはない。ことばはいつでも映像を世界から切り離すノイズであり、音楽である、と感じてしまう。その瞬間、私は、いままでみたことがない映像と出会っている、と感じる。この感覚が、私にはとても気持ちがいい。
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