詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐々木洋一「ねんぶらん」

2017-06-16 08:10:49 | 詩(雑誌・同人誌)
佐々木洋一「ねんぶらん」(「ササヤンカの村」27、2017年07月発行)

 佐々木洋一「ねんぶらん」は子守歌である。「ねんぶらん ねんぶらん」という不思議な音。私は現実には聞いたことがないけれど、読んだ瞬間「子守歌」とわかる。

ゆりかごゆれて
ねんぶらん
ゆれて ゆられて
ねんぶらん ねんぶらん
めざめよ こども
いのちのじかん
たれにもじゃまされず
めざめよ こども
このよのめざめ

 そして、この子守歌は子守歌なのに「めざめよ」と歌っている。「ねむれよ」ではない。しかし、このことに疑問を持つ前に、あ、そうか、子供が眠るというのは「目覚める」ということなのか、と私は納得してしまった。眠りの世界へ真剣に入っていく。いまとは違う世界へ、意識をもって入っていく。あ、すごいなあ、と感じた。
 子供になって、この歌を聞きながら、眠りの世界に目覚めたい、と思ったのだ。

 この奇妙な錯覚、あるいは「誤読」はどこからやってくるのか。

ゆれて ゆられて

 ここには「ふたつ」の「動詞」がある。「ゆれる」という「自発的」な動き。「ゆられて」という「受け身」の動き。「揺れる」が基本になって、「ふたつ」にわかれていく。子守する人が「ゆらす」。赤ん坊が「ゆすられる」。そういうときの明確な、主語の違いを引き起こす「ふたつ」ではない。何か、もっと、あいまい。赤ん坊は「ゆれ」ながら「ゆられる」。「ゆられ」ながら「ゆれる」。はっきり「主語」が違い、「動詞」も違うはずなのに、その「違い」をのみこんでいく「ふたつ」。いれかわっていく、「ふたつ」。
 この奇妙な「融合」が、「めざめよ」を呼び起こしているように思う。「ねむる」は「めざめる」なのだと感じさせる。
 この一連目は、こう歌いなおされる。

ゆりかごゆれて
ねんぶらん
ゆれて ゆられて
ねんぶらん ねんぶらん
ゆれろよ こども
こころのじかん
たれにもじゃまされず
ゆれろよ こども
はだしのしゅんかん

 「ゆれる」「ゆられる」は「ゆれろ」という、積極的な自発の動きになる。そして「いのち」は「こころ」にかわる。「こころ」がめざめるのだ。「めざめ」は「はだし」と言いなおされる。この「はだし」は、また「こころ」の言いなおしでもあるだろう。「名詞」として違った名前をあたえられているが、それは「同じ」もの。
 なんだか、わくわくする。
 「ねむる」のは、いままで知らなかった世界にめざめることだとわかると、はやくねむりたい、という気持ちになる。不思議に興奮する。ねむらなければ、と思ってしまう。
 で、三連目。

ゆりかごゆれて
ねんぶらん
ゆれて ゆられて
ねんぶらん ねんぶらん
ねむれよ こども
ねむりのじかん
たれにもじゃまされず
ねむれよ こども
やみよのねむり

 やっと「ねむれ」ということばによって、普通の子守歌になるのだが、この普通は見かけ。ほんとうは違う。
 どう違うか。
 説明はむずかしい。
 むずかしいから説明はしない。ただ、眠るのは楽しい、という気になるのである。

 こういう説明できない詩は好きだなあ。


佐々木洋一詩集 (日本現代詩文庫・第二期)
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