詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』

2006-03-12 22:07:39 | 詩集
 小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』(岩波書店)を読む。

 どのエッセイにも「複数の道」がある。
 ひとつの題材がひとつの題材のまま語られるのではなく、ある題材を語り始めて、それが類似の別の題材を呼び込む。そこに一貫したテーマがあるというより、なんとなく複数の道が描かれることで、ひとつの「感覚の街」が描かれるという感じだ。
 「道について」で小池は生まれ育った江東区について語っている。区画整理された街だ。その街の道について、つぎのように書いている。

碁盤の目のなかに暮らしていたころ、わたしはひとつの道を歩きながら、同時に、その道の裏側に、平行して走る道があることを知っていた。ひとつの道がもうひとつの道と、どのようにつながっているのかを知っていた。

 この感覚が、あらゆるエッセイを通じて、その基盤にある。
 また、次のようにも書いている。

 自分の身体を何十倍にもふくらませたもの、それが暮らしている町の実感であり、同時にまた、自分が町を構成している細胞のかけらのひとつであることを、無意識のうちに感じている。

 碁盤の目で構成された街。碁盤の目のように広がっていく街。小池の街。たしかに小池のエッセイはそうした具合にできている。
 私はしかしこの感覚が好きではない。何かなじめないものを感じる。「ひとつの道がもうひとつの道と、どのようにつながっているのかを知っていた。」というときの小池の感覚が、あまりに「頭脳的」に感じられる。地図を広げ、碁盤の目を俯瞰しているように感じられる。肉体的には感じられない。「平行して走る道」というのは、俯瞰して見れば平行した道があるということとは違うのと私は感じてしまう。
 左の歩道(つまり右の歩道ではなく)をいくとコンビニがあり、そこには必ず漫画本を読んでいるお兄ちゃんがいる、というようなことが私には「平行して走る道」に感じられる。歩いていくとき、そんなことはどうでもいいのだが、なぜか思い出してしまう、気にかかる、そういう「存在」こそが「平行して走る道」(街の背後の道)ではないかという気がするからだ。
 肉体ではなく、頭脳で整理された「小池ワールド」を散歩してしまった、という気持ちになってしまうのだ。
 エッセイのなかにいくつかの詩人の作品が引用されているが、それは「肉体」というより、頭脳で整理・分類されたもののように感じられてしまう。碁盤の目で区切られた場所に整然と存在しているように感じられてしまう。その作品をここで引用したかったわけではないのに、なぜか引用してしまったというような感じがない。はじめから、今書いていることの南隣りにはその作品につづく道があると知って書いている感じがしてしまう。

 たとえば「鹿を追いかけて」。
 小池は鹿の目を「混沌のままに残されている」と書いている。そして、それを具体的に説明するために、山奥の温泉場で出会った鹿について書く。

鹿の視線は、わたしを選別するようなものではなかった。わたしを見ているのに、わたしを選ばない。むしろ、わたしの輪郭をとかし、わたしを世界のなかへとかしこみそこへ送り戻すような視線。

 これはたいへん美しいことばだ。思わず傍線を引いて読み返してしまう。「混沌」とはたしかにある存在の輪郭をとかし、世界のなかへとかしこみ、そこへひきもどすことだ。そしてそこから生成がはじまる。一期一会の生成がはじまり、あたらしいわたしが再生する。
 ところが、そうした小池の再生が、その実感のありようが、「碁盤の目」のなかに引き戻されてしまう。
 小池は、彼女自身のすばらしい体験を、村野四郎の「鹿」と重ね合わせてしまう。
 この結果、たしかに「小池ワールド」は碁盤の目のように整然とできあがるのだが、私としては、あれっ、そんなふうに碁盤の目の地図にしてしまっていいのかな、という疑問が浮かんでしまう。
 鹿と向き合ったあと、小池は次のように書いていた。

 そういう視線に見つめられたことで、わたしもまた、わたしでありながらわたしを解き、鹿を通して、鹿の向こうの大きな「森」と対峙していたのかもしれない。

 その「森」をこそ書いてほしかったと思う。森の中で小池は道に迷うだろう。道をうしなうだろう。しかし、小池には小池という肉体がある。道をうしなっても歩いていれば自然に道はできる。そしてその道は「碁盤の目」(俯瞰)ではとらえられなかった思いがけないものと出会うはずだ。そしてそのときこそ、自分の歩いた道がどことつながっていたかがわかるのではないだろうか。

 「花たちの誘惑」で、小池は菊を育てている隣家のことを書いている。見事な花がある朝、首から切り落とされていた。

彼の心中を推し量って、わたしは、ぞっとしたり、かわいそうに思ったり、でも、心の奥ではちょっといい気味だと思ったりした。

 こんなふうに「心の奥」を見つめることができるのだから、その内部へ内部へと踏み込んで行ってほしいと願わずにはいられない。「碁盤の目」のように、私のこころには「ぞっとしたり」「かわいそう」という気持ちと「平行して」「ちょっといい気味と思う」こころがあると書かれただけでは、なんだかなあ、という気持ちになってしまう。
 せっかく違う場所へ出たのなら、その場所をもっともっと押し広げてほしいと思うのだ。

*

 詩の感想について、ふたつのことを思った。石原吉郎「フェルナンデス」について、小池は書いている。

この詩を読むと、自分が活字を読んでいるという気がしなくて、目を開けていても目を使わず、ただ、くぼみを手で触っているという感じがしてくる。

 ああ、いいなあ、こういう感想を書いてみたいなあ、と思う。

 ギュンター・グラスの「黒雲の下で卵をあたためる」については、次のように書く。

 黒い雲とめんどりを見守っているのは詩人ばかりではなく、すべてこの詩の読み手たちでもあるのが、見つめる者の姿が描かれたことで、この詩を読む者はいつのまにか、この光景を見ている自分自身をも、遠くから見つめているような気持ちになってくる。見ている自分を含む、この世界全体を眺め渡す目は、いったい誰のものなのか。黒い雲の目? それとも神の目? 自分が読んでいるのに、わたしは次第に、そのことからも自由になっていく。いったい、誰がこの詩を読んでいるのか? と。

 あ、これは、どういう感覚だろうか。
 私はグラスの詩を読んだとき、まったく違う気持ちになった。鶏になった。自分以外には関心がない。石灰を食べ、卵を抱いている。何が起ころうと、そんなことなど気にしない。自分を見つめている詩人がいるなんて、どうでもいいことだ。関心は石灰と卵。それだけだ。
 世界全体を眺め渡すことなど無意味だ。ただ石灰と卵だけが事実であり、世界だ。そして、その世界である「卵」、そのなかで起きていることなど、起きてみなければわからない。その卵がどの道につながっているかなど、卵が孵化してみなければわからない。だから抱き続ける。それだけだ。そう信じて卵を抱いている鶏の「度胸」が美しい。

 世界は「眺め渡す」ものではない、「碁盤の目」に閉じ込めるものではない、ただひたすら目の前にあるものと向き合うだけなのではないか。向き合いながら、たとえば「フェルナンデス」の詩を読んだときのように、読んだことさえ忘れ「触覚」になってしまうことではないのか、と思う。

*

 私にとっては、共感できる部分と、まったく共感できない部分が、それこそ碁盤の目の道のように平行して走っているエッセイ集だった。


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