詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-16)

2017-05-16 11:06:27 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
31 *(走しつて 走しつて)

走しつて 走しつて 走しつても
一つの砦はさらに遠のくのだ

 嵯峨はときどき見慣れない「表記」をつかう。「走つて」が普通だと思うが「し」を付け加えている。晩年は「魂」も「魂しい」と書いていた。「し」という文字が好きなのかもしれない。漢字にぶらさがっている。はみ出しながら、なおもついていく。のみこまれるのでもなく、おちこぼれるのでもなく。
 この書き出しも、何かそういう感じ。
 「遠のく」と嘆きながらも、あきらめない。

誰にそのことを告げたいか
どんな言葉でそれを伝えることができるか

 そういう行をつづけたあと、

一生ただむやみに走りつづけたぼくを
呆うけたぼくの姿を誰がじつとさいごに見ているか

 「走しりつづけた」ではなく「走りつづけた」。誤植なのか、それとも書き分けているのか。判断がむずかしい。
 「走しる」が、ふいに、苦しい姿に見えてくる。

32 *(ぼくは多くの深みで愛されるだろう)

ぼくは多くの深みで愛されるだろう

 この「深み」は、「--ぼくを抱いて」の「裸麦の束を抱くように 両手を大きくひらいてぼくを深く抱く」の「深く」を思い出させる。嵯峨にとって愛とは「広さ」よりも「深さ」の感覚である。「多くの人」というよりも「一人の人」へ意識が集中している。
 「深さ」「深み」は「深める」なのだ。
 とはいいながら、詩の最後の三行。

その時ぼくはおもう
砂あらしが空を暗くとざしている沙漠のはてを
大風にあふられている天幕のなかへかけこむ一匹の白い小犬を

 イメージが、ふいに遠くへ飛ぶ。「深み」が内部からはじけ、ぱっと広がる。
 こういう「矛盾」のようなものが、きっと詩を支えている。人間を支えていると行った方がいいのかもしれない。






嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社




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