詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大橋政人『まどさんへの質問』

2016-10-15 09:31:24 | 詩集
大橋政人『まどさんへの質問』(思潮社、2016年10月15日発行)

 大橋政人『まどさんへの質問』には「花」が登場する詩が何篇かある。そのうちの一篇の「ハイライト」の部分は「帯び」になっている。
 で、「帯び」にならなかった方の「花の温度」を読んでみる。

熱くて
さわれないような
花はない

部屋の温度を
強くしても
花は
熱くならない

花弁に
指でさわると
いつも
花瓶の温度と
同じくらい

花瓶の
水ばかり
飲んでいる
せいだろうか

(一日中
(澄ました顔で
(水の中

 一連目、二連目。ふーん、変なことを考える人だなあ、という印象。私は、花が熱いかどうかなんて考えたことがない。だから、ここでは、そうか、そんなふうに見る視点があるのか、という感じ。よく言えば、何も知らないこどもの発想。悪く言えば、こどもっぽさを狙った作為も感じられる。
 しかし、三連目で、びっくりした。
 えっ、触って確かめたの? 
 ふいに、花に触ったときの感じが「肉体」の奥から蘇ってくる。確かに「熱い」ということはない。あえて言えば「ぬるい」。人間の「肌」よりは「ひんやり」しているかもしれないが、どれくらい違いがあるか、わからない。人肌は「熱い」ときもあれば「ひんやり」しているときもある。その「温度」といっしょに、花びらの「つるつる」「しっとり」という感じも思い出すなあ。でも、この私の「感触」は「思い出したもの」であって、実際に、いま、花に触って確かめたものではない。
 触ったあと、大橋は、こう言いなおしている。

いつも
花瓶の温度と
同じくらい

 そうだなあ。「花瓶と同じくらいだろうなあ」と想像できる。納得できる。その「納得」が「空想の肉体/肉体の空想」を刺戟して、それでおしまい、かというと、そうではない。

いつも

 うーん。「いつも」か。もちろん、大橋は毎日触ってたしかめているわけではなく、たまたまその日、花に触り、花瓶に触り、また花に触るという「繰り返し」をしてみて、「繰り返し」のなかで起きる感じが変わらないので「いつも」と言っているのかもしれないが。
 で、この「いつも」は単に「過去」(繰り返された時間)だけのことではなく、これからつづく時間を含めて「いつも」なのだと、私は直感的に感じる。
 触って確かめたのは、ついさっきのことなのだけれど、その確かめたことは、これからも「いつも」、つまり「永遠」にかわらない「事実」なのだ。
 ここに「永遠」がある。
 一連目に書いていることは「思いつき」。いわば、頭でも書けるかもしれない世界。それが三連目で「永遠」に変わっている。そして、そのとき「指でさわる」という具合に、実際に「肉体」が動いている。「肉体」が「永遠」に参加している。「花」だけが「永遠」になるのではなく、「肉体」そのものが「永遠」になっている。「花/肉体(指)」がひとつになって、そこに存在している。
 いいなあ、この三連目はいいなあ、と思わず「いつも」の三文字を丸く囲みながら(傍線では何かを逃がしてしまいそうと感じながら)、また読み直すのである。
 四連目以降は、つかみ取った「永遠」を「別の角度」からととのえなおしている。「頭」でととのえなおしている。でも、そんなに「頭」「頭」という感じ、うるさい感じがしないのは「指で触る」という具合に実際に「肉体」が動いたことを知っているからだ。「肉体」が共鳴するからだ。
 さらに

水ばかり
飲んでいる

 と、ここにも「飲む」という動詞があって、それが「肉体」を刺戟してくるからだ。「水を飲む」ということを、私は知っている。「飲む」という「動詞」に誘われて、私は水を飲むときのことを思い出す。「花」が「主語」なのに、その「花」と私の肉体が重なる。あるいは、入れ代わる。
 「触る(セックスをする)」とは「肉体」が入れ代わること。自分と相手の区別がなくなること、とは、瀬崎祐『片耳の、芒』で書いたことだが、この作品でも、それに通じることを感じる。
 四連目で大橋は、「花」になって水を「飲んでいる」のである。
 だから、

(一日中
(澄ました顔で
(水の中

 これは「花」の描写ではなく、「自画像」でもある。「水の中」に花が咲いているわけではないから、「現実」ではない。空想。この「空想」というのは「肉体」という「現実」に対しての便宜上のことば。一般的なことばで言えば「心象風景」ということになるかもしれない。「こころの中の風景」、あるいは「こころの風景」。
 私は「こころ」というものの存在を信じていないのだけれど、こういう行(こういう具合に進んできて動くことば)に触れると、「肉体」のなかに「こころ」がある、「こころ」は「こころの風景」を生きていると考えるのもいいなあ、と思ったりする。
 おっ、美しい、と思わず声が洩れてしまうのである。

 私は、この作品は、ここで終わってもいいのじゃないかなあ、と思う。
 ところが、このあともう一連ある。

熱いのか
寒いのか
気もしれないから
着物も
着せられない

 最後の語呂合わせ(私は苦手だ)がうるさい感じがする。せっかく「こころ」で終わったものを、「頭」へ引き戻す感じがする。
 この詩集は『まどさんへの質問』。まど・みちおを意識している。私はまど・みちおを読んだことがない。「ぞうさん」の歌くらいしか知らない。でも、まど・みちおなら、きっと最終連は書かないだろうなあと思う。知らないまど・みちおと大橋を比較してもしようがないのだが(単なる想像になってしまうのだが)、最後に「頭」で「けり」をつけるかどうか、という部分が大橋とまど・みちおの大きな違いかもしれないとも思うのだった。

まどさんへの質問
大橋政人
思潮社
『ポエム』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 毎日新聞2016年10月14日夕刊 | トップ | 自民党憲法改正草案を読む/... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。