詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高柳誠『高柳誠詩集成Ⅱ』

2016-11-26 10:29:43 | 詩集
高柳誠『高柳誠詩集成Ⅱ』(書肆山田、2016年11月05日発行)

 高柳誠『高柳誠詩集成Ⅱ』には『イマージュへのオマージュ』から『半裸の幼児』までの詩集が収録されている。『廃墟の月時計/風の対位法』以後の作品は『集大成Ⅲ』に収録されるのだろう。高柳のことばはどこまで進むのだろう。どこまで行くのだろう。「過去」の詩集なのに、「未来」を思ってしまう。その拡がりの、一層の広さを。
 しかし、私は「全体」を見渡すということが苦手なので、個別の作品についての感想を書く。
 『イマージュへのオマージュ』から「或ることばひとの来歴--時里二郎に」。「ことばひと」は「ことば」と「ひと」とも受け取れるし、「ことばひと」という「造語」のようにも感じられる。「詩人」の「詩」を「ことば」と読み、「人」を「ひと」と読み、ふたつを「ひとつ」にしたという感じ。「時里二郎に」と書いてあるから、「詩人/ことばひと」は時里を指している。しかし、高柳自身のことを書いているようにも見える。時里と高柳をつなぐ「ことば」と「ひと(肉体)」の接触を感じる。

あなたは《非在のアオサギ》の翼を身に帯びた瑠璃色の少年だっ
た 翼あるものの光彩を通してウメモドキの実の内部を見透かす乞
児だった 《白い巨木》を螺旋形に穿つ《ことばの廃道》を駆け抜
けては 彼岸と此岸を自在に繋ぎ留める天狗の陰間だった

 ルビは省略したが「乞児」は「ほがいと」。
 《 》でくくられたことばは時里の作品からの「引用」なのだと思う。《非在のアオサギ》の「非在」は時里の詩をつらぬくことばとして思い出すことができる。(どの作品の、どこに、ということを指摘するべきなのかもしれないが、私はしない。「文献学」ではなく、私が覚えていること、肉体が思い出せることをもとに感想を書く。)
 しかし、《 》でくくられていないことばにも時里を感じる。「瑠璃色」「ウメモドキ」(特に「モドキ」ということば)「内部」「螺旋形」「彼岸と此岸」。
 これに「自在」を付け加えると、高柳のことばが《 》でくくられて、地のことばが時里のことばにも見えてくる。ふたりのことばが交錯、融合して、いっしょに動いて区別がつかなくなる。
 私はどこかで高柳と時里を混同している。いや、区別していない。
 ある対象(詩のテーマ)があって、それはまだ形になっていない。「彼岸と此岸」が区別されていない。それがことばによって区別されるとき、詩があらわれる。あるものが「彼岸(非在)」と結びつけられ、あるものが「此岸(現実/実在)」と結びつけられる。
 「彼岸(非在)」は「ことば」になるとき「非在」でありながら「実在」になり、「此岸(実在)」が「ことば」になるとき「実在」でありながら「抽象」になる。「架空」になる。あるいは「精神」になる。「論理」になる。「非在(手でつかめないもの)」になる。
 「抽象/架空/精神/論理」の運動が「ことば」。「彼岸と此岸」を切断しながら接続する。「螺旋形」に似た形で動いていく。

                    あなたは該博な知識で
知られた博物学者だった 宇宙の種子を《胚胎する大樹》への著し
い偏愛を示す遺稿の断片からは 《歪んだ球形の果実》の形姿をと
っていくつもの《意味の迷宮》が浮かびあがり あなたの後ろ姿を
書物の余白にくっきりと投影した

 「歪んだ」「迷宮」なのに、「くっきり」している。しかも、それは「余白」に「投影」されている。「余白」(意味になっていない部分)にあらわれてくる。それは同時に、そこに「余白」があるということをあきらかにするということでもある。
 「歪んだ」は「球形」の視点から見れば「歪み」ではなく、歪んでいないになる。「螺旋形」は「球体」の一部である。球体の面にそって「真っ直ぐ」に動くと、それは「螺旋」という曲線になる。「螺旋」という曲線を動くとき、残される痕跡(意識)は一本の長い線になる。「まっすぐ」なものとして「肉体」に記憶される。「螺旋」は一度として「脇道」へそれることはないのだから。
 「球形」のなかにすべての「胚胎」がある。「球形」は「宇宙」である。

 書けば書くほど、時里か高柳か区別がつかない。

 けれど、この区別のつかなさは、「嘘」である。
 高柳と時里は違う。ことばの性質が、高柳は「絵画」に似ている。時里は「音楽」に似ている。私の印象にすぎないが。高柳の詩を読むと「絵」が思い浮かぶ。時里の場合、「絵」というよりも「語り(口)」が思い浮かぶ。
 それなのに「区別がつかない」という感じになるのは、そこに私の「ことば」が加わっていくからである。
 「傍観」すれば違いがわかるのに、それについて書き始めると「区別」が見えにくくなる。まざってくる。
 「ことば」は何かを識別するものだが、同時に何かを自分に引きつけてしまう。その「引きつけ」の動きの中には、「本能」のようなものがあって、自分にあわないものは知らず知らずに除外する。自分の「肉体」にあったものだけを強く引きつける。
 だから(?)、そこに何かが「統一」される。「統一性」が生まれる。「統一性」が「違い」を消していく。
 この、私の「肉体」のなかで起きていることが、高柳が時里について語ることばの運動でも起きているのだと思う。
 「語る」ことは対象と「ひとつ(一体)」になることだ。

 と、書いてしまうと、それはどんな詩についてもいえること。
 「対象」を書きながら、「対象」そのものになってしまう。自分が自分でなくなる。
 あ、「論理」はいやだなあ。嫌いだなあ。どうしても、そういう「間違い」にたどりついてしまう。
 存在は「個別」、「違い」がある。「違い」を「違い」とわかっているのに、「違い」がないというところにたどりつかないと「わかる(わかった)」気にならない。
 全部、錯覚なのに。

 私の書いたこと(論理)は「間違いである」というところから出発して、高柳の書いたことばのなかへ帰っていかなければならない。「論理」を否定して「混沌」(書く前のあいまいな感じ)にもどるとき、詩が動く。
 だから私の書いていることばは忘れて、高柳の詩を読んでください。


高柳誠詩集成 2
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書肆山田


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