詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-17)

2017-05-17 14:59:01 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-17)(2017年05月17日)

33 *(もう一度そこに立つことがあろうか)

もう一度そこに立つことがあろうか
誰も知らない頂上

 「頂上」は「場所」ではなく「時間」である。「瞬間」である。「時間」と「場所」は違う概念だが、人間は概念を混同する。どこかに「概念の肉体」というものがある。「人間の肉体(いのちの肉体)」が「ひとつ」であるように「概念の肉体」もひとつであり、切り離してしまっては「いのち」ではなくなるのかもしれない。

つかのまのうちに明るく輝いて消えてしまつた頂上
そこではなにもかも二倍も三倍も大きくなつた

 「頂上」は「輝き(光)」と言い換えられ、それが「大きくなる」という変化するものとして言い換えられていく。
 この「言い換えの変化」のなかに詩がある。
 「概念」の「仕切り」(いまはやりのことばで言えば「しきい」か)を超えていくことば。「しいき」を超えることができる「ことばの肉体」。
 さらに、嵯峨はそれを変化させるのだが。

たとえば掌ほどの希望が
壁いつぱいにかかつている大きな世界地図のように

 この「概念」から「比喩」への変化が、とてもおもしろい。
 「輝き(ひかり)」は「希望」ということばで言いなおされ、「二倍も三倍も大きくなつた」は「掌」から「世界地図」へと言いなおされる。
 「概念」が「もの」として見えてくる。
 この変化の中に、詩がある。

* 34(どこまで行つても)

どこまで行つても
辿りつかなかつた死の国では
噴水はふるえる影をその日よりさらに前方へひろげようとする

 「矛盾」の多いことばである。「矛盾」とは「論理的ではない」ということ。
 「死の国」へたどりついてしまったら、ことばは書かれない。書くということは、死んでいないということである。
 「ことばの肉体」は「論理」の「しきい」を超えてしまう。その「超え方」のなかに詩がある。

噴水はふるえる影をその日よりさらに前方へひろげようとする

 これは、「空想」である。「死の国」に辿り着いていないのだから、「死の国」の描写は不可能である。「空想」は嘘である。しかし、この一行を読んだとき、それを「嘘」と感じるか。感じない。
 「論理的ではない」という言い方には、何か、変なものがある。
 「論理的ではない」のに、あることばには「必然」を感じる。
 この「矛盾」した感覚の中に詩があるということなのか。


嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社


『ポエム』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 「嵯峨信之全詩集/時刻表(1... | トップ | ウッディ・アレン監督「カフ... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

『嵯峨信之全詩集』を読む」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。