詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野崎有以「Sへの手紙」

2017-06-29 08:27:51 | 詩(雑誌・同人誌)
野崎有以「Sへの手紙」(「現代詩手帖」2017年07月号)

 私は最近、若い詩人の作品に「反応」しなくなった。別のことばで言うと、あ、このことばを書いてみたい。盗んでみたい、という気持ちにならない。

 「現代詩手帖」2017年07月号は「新鋭詩集2017」という特集を組んでいる。その最初に野崎有以「Sへの手紙」がある。

いまはもう薄めた石膏の匂いしかしないあなたの部屋を
私は赤ん坊の近視の目で見たのだろうか
ぼんやりした足跡のようなぬくもりを
管理人室の折り紙と鉛筆でできた造花はそのままで
あなただけが出ていった

 この一連目には「薄めた石膏の匂い」という魅力的なことばがある。これは盗んでみたい。剽窃してみたい。しかし、欲望はすぐに消えてしまう。つづくことばが「薄めた石膏の匂い」と、うまく響きあわないからだ。
 リズムが、おかしい。音がおかしい。

いまはもう薄めた石膏の匂いしかしないあなたの部屋を

 この音が「長い」。私の「息」は、こんなに長くつづかない。読んでいて苦しい。つづく「私は赤ん坊の近視の目で見たのだろうか」も同じ。「近視の」が長く感じさせるのか。「目で見た」がしつこいのか。「だろうか」がわずらわしいのか。よくわからないが、私の「肉体」はもっと短くして、と叫んでいる。
 「長い」ために、「リズム」が苦しくなり、「音」に不自然なものが混じる。
 こういうことは「感覚的」なことがらなので、私のことばは、野崎にはつたわらないと思う。
 そして、この「長さ」は、「詩」ではなく「散文」なら大丈夫かというと、そうでもない。「散文」だとしても、私には耐えられない「リズム」であり「音」である。

 「動詞」の力が弱いのかもしれない。あるいは「動詞」以外の情報量が多いのかもしれない。
 ふいに、そう思った。

いまはもう薄めた石膏の匂いしかしないあなたの部屋を

 この一行にある「動詞」(動詞派生のことば)、「薄めた(薄める)」「匂い(匂う)」「しない」と三つある。この「動詞」のうちの、どれが一行を支えているのか。「薄めた(薄める)」は「匂いしかしない」ということばと緊密な関係にあるが、「しかしない」の「しか」が「強調」なのに、なんともうるさい。「動詞」を強めるために書かれているのはずの「しか」が、「動詞」の連絡を弱めている。「しか」によって、「意味」は強くなっているはずなのに、「長く」なったぶんだけ、「薄まった」印象がする。
 その「薄まった」関係の中に、「あなたの部屋」が入ってきて「主語(主役?)」の座を奪い取る。そのときの「あなた」と「部屋」の「二つ」の情報が、私にはうるさく感じる。「あなた」に主眼があるのか、「部屋」に重きがあるのか。これも、即座にはわからない。
 「匂い」を感じていた「私」は「あなた」によって消されてしまい、私は困惑する。
 「意味」は「頭」では「わかる」。けれど「肉体」は「わからない」と言ってしまう。「わかりたくない」のである。「うるさい」と感じるから「わからない」と叫びだしてしまう。私の「肉体」は。

右頬の貼りついたような泣きぼくろ
あなたが抱き締めてくれたら消えると馬鹿みたいに信じていた
ほんとうに馬鹿みたいに

 一見、「口語」のようではあるが、「口語」ではこんな「長々しい」ことばを発しないだろう。私は黙読するのだが、黙読しながら「息切れ」する。

右頬の貼りついたような泣きぼくろ

 には、「貼りつく(貼る+つく)」「泣き(泣く)」と、二つというか、三つというか数え方がむずかしいが「動詞」が複数ある。これがことばを散漫にする。さらにそこに「ような」ということばが割って入っている。
 そのあとの二行では「馬鹿みたいに」ということばが繰り返され、それが「口語」を装っているが、どうも落ち着かない。「口語」はもっと「急ぐ」ものである。
 では「文語」かというと、私の印象では「文語」でもない。「文語」は「口語」よりもっと速い。「整理されたことばの連絡」が「文語」である。

 どうも、いま人気の若い詩人のことばは、「だらだら長い」のである。
 だらだらとした感想を書いている私が、こんなことを書くのは変だが。

 三連目の書き出しの四行。

名前のないあの通りにずっと苦しめられた
左側は日の当たらない映画館
右側は「選ばれし者」の住む城
「通行証」を持たない私は右側へ歩いていくあなたを見ていただけ

 一連目の二行目に出てきた「見た(見る)」が、やっとここで反復される。ここで「見る」という「動詞」を中心に世界が結晶するかというと、そうでもない。
 このあと、

城の幻想に苦しむ子供を見つけたら

あなたが不眠の痩せた身体でやっと私を見つけに来た前の週
あの映画館で私みたいな女がジュエリービーンズを食べる映画を見たの

 と「見る(見つける)」と「見る」は反芻されるが、そのあいだに挟まれる情報量が多すぎて、「見る」をつづけられない。「見たもの」が散らばるだけではなく、「見る」の「主語(主体)」の「肉体」まで分断されてしまう。

 野崎は、森本孝徳との対談で「私の詩は時としてつよすぎる言葉で書かれていますが」と語っている。どこに「つよすぎる」ことばがあるのか、わからない。また、

小学五年生のときから読み続けてきた吉行淳之介

 とも語っている。
 これには、私は仰天してしまった。
 私は田舎育ちなので、家のまわりには教科書以外はなかった。教科書以外で初めて読んだのは、親類の家にある「家の光」という雑誌だったが、それも小学校の高学年、あるいは中学生になっていたかもしれない。父の兄が死んで、葬式のときに、父の兄の家で偶然見つけたものだ。吉行淳之介なんて、高校を卒業しても知らなかった。「文学の情報量」「ことばの情報量」が、いまの若い詩人と私では決定的に違っているということなのか。
 うーん、ついてゆけない。
長崎まで
クリエーター情報なし
思潮社

コメント (1)    この記事についてブログを書く
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1 コメント

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指摘 (佐々木俊明)
2017-06-29 10:18:03
内容は、兎も角、中の「ジュエリービーンズ」、と言う誤りが、全てを台無しにしていた‼

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