詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

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自民党憲法改正草案を読む(4)

2016-06-25 12:06:00 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む(4)


 自民党憲法改正草案「前文」のつづき。

我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。

 「我が国は、……世界の平和と繁栄に貢献する。」と要約することができる。これだけ読むと、「正しい」ことを主張しているように見える。いや、「正しい」のだと思う。
 でも、なんとなく嘘っぽい。いいことばかりが書かれているように思う。
 いや、「嘘っぽい」ではなく、ここには「嘘」が書かれている。
 それは、

我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、

 この部分である。
 「大戦による荒廃」や「幾多の大災害」ということばのつなぎ方が奇妙である。「大戦」と「大災害」は同列のものなのか。「大戦(戦争)」は国が引き起こすもの。人為的なもの。「大災害」には人為的なものもあるが「自然」が原因のものもある。たとえば「大地震」。もちろん「大地震」も人知をつくし予知し、災害規模を減らすことはできるだろうけれど、地震そのものを発生させないというのは困難だろう。それは「戦争」と同列にあつかってはいけないものなのだ。別のものなのだ。
 しかし、自民党は、それを別のものと考えない。
 「大戦による荒廃や幾多の大災害」とことばをつなげるとき、「大戦」もまた、不可抗力で起きたかのように見えてしまう。そこに「ごまかし/嘘」がある。
 「先の大戦」は地震のように、人間の支配できないところで発生したのではない。「先の大戦」の「震源」は「政府」にある。だから現行憲法では、きのう触れたが、

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、

 という一文があった。
 自民党の憲法改正草案には、この「反省」がない。まるで日本が他国の戦争に巻き込まれ(あるいは他国から戦争をしかけられ)、その結果「荒廃」したように読めてしまう。いや、「反省」をわざわざ省略し、「先の大戦」を「大災害」と同等に扱うとき、そこには「先の大戦」を「大災害」と見る視点が隠されている。
 (この「大災害」を前面に出し、「戦争」を背後に隠して「論理」を展開する方法は、現実に起きている。たとえば、地震災害。直近の熊本地震のとき、自衛隊が救助活動に活躍した。そのことを取り上げて自民党は「自衛隊は貴重な仕事をしている。それなのに共産党は自衛隊を違憲だと主張している、廃止しようとしている」云々。しかし、共産党は「自衛隊」が災害救助に活躍することを批判しているわけではないだろう。「戦争」に駆り出すことに反対している。だから、自民党の論理を逆に言い直せば、「なぜ災害救助に重要な役割を果たしている自衛隊を戦場に行かせ、死ぬ危険にさらさなければならないのか。災害救助に必要な存在なら、戦場に行かせるような法律はつくるな」ということになる。「戦争法」をつくって自衛隊員を戦場に行かせるのは、おかしい。「戦場」は「自然災害の現場」ではないのだから。だが自民党(安倍)はそうは考えない。--ここからも、自民党は「戦争」と「災害」を区別しないでいることが指摘できる。「戦争」を「災害」と呼ぶことで、自衛隊を戦場に行かせることを当然だと考えていることがわかる。)
 自民党の憲法改正案には、「先の大戦」の責任(敗戦の責任)は「政府」にはない、という思いが隠されている。他の国が悪いのだという思いが隠されている。「反省」のないところ、「反省」をせずに、責任を他者に転嫁したところから、自民党の憲法改正草案は書かれている。

 改正草案の前文のつづき。

日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

 私は、ここにもつまずく。
 「日本国民は、……国家を形成する。」「我々は、……国を成長させる。」「日本国民は、国家を末永く子孫に継承するため、」
 これは、「国民」と「国家」の関係が逆ではないだろうか。
 「国」が「国民」を守るとき、そこに「国家」が生まれる。「国が、国民を成長させるとき(充分な教育の機会を提供し、国民のひとりひとりが成長するとき)、国家は必然的に成長する」。「国が、老人もこどもも大切にするとき、国民のいのち、文化は、おのずと継承されていく。人間のいのちそのものが継承されていく。」
 「国」はそれを助けるもの。「国」は国民を守るもの。「国」が国民を大切にするとき、国民はおのずと「国」の重要性に気がつき、「国」を大切にするだろう。
 それに。
 「国」と「人間」の関係は、「国」は「国民」を選べないのに対し(その「国」で生まれてきて、そのひとがその「国」で生きることを選んだとき、「国」はそれを拒めない)、「人間」は「国」を選べる。「亡命」とか「移住」とか。あるいは、選挙によって「政府」を選ぶことができる。
 こういう「選択権」を自民党の憲法改正草案は否定している。憲法を「政府」を拘束するものであるはずなのに、自民党は、憲法を「国民」を縛るものとする「定義」によってつくられている。逆の「思想」でつくられている。

 「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」は「美しいことば」だが、奇妙である。「和」というものは最初からあるものではない。「家族」「社会」のなかには、さまざまな人間が生きていて、それぞれに考え方が違う。ときには、激しい議論も必要である。「ことを荒立てる」ことも必要である。「家族」を解消しないことには生きていけない場合もある。
 ここにも、「国/枠組み」が最優先し、「国民」はそれにしたがう、「国/枠組み」が「国民」を支配するという姿勢が隠されている。

 それにしても。
 「日本国民は、」からはじまる文章は非常に気持ちが悪い。そこには「世界」というものが認識されていない。「日本国民は、」と国民をおだてておいて、「日本」は特別な国であると言おうとしているように思える。
 現行憲法と比較するとはっきりする。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 現行憲法も「日本国民は、」と書き出されているが、そのことばの先には「国(日本)」があるのではない。「日本国民」の先には「諸国民(他の国の国民)」「全世界の国民」ということばがある。「国(日本)」か「国民(全世界の国民)」かという違いはとても大きい。
 「国民」というのは「仮の呼称」であって、ほんとうは「人間」。「人間」は「人間」とつきあう。向き合う。それが「何国人」であれ、「人間」は「何国」と向き合うわけではなく、「人間」と向き合う。「国」は関係がないのである。「政府関係者」か何か、特別な仕事についていないかぎりは、「人間」は「人間」と出合うのであって、「国」と交流/交渉するわけではない。
 「国」が「国民」を縛る(拘束する/決定する)のではなく、「国民」が「国」を拘束し、すべてを決定する。それが「国」と「国民」の基本的なあり方だから、現行の憲法は、「日本国は」といわずに「日本国民は」と書いている。
 それは「ひとりひとりの日本国民」に代わって、「世界の国民」に向かっての呼びかけなのだ。「私はこうします」と言っているのだ。
 「国民」が「国」をつくる(拘束する)ものであるからこそ、最後の「国家」についての部分でも、主語は「われら(国民)」なのである。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 ここに書かれている「自国」は「日本」ではない。「国」という「概念」そのものである。「他国」も特定の国を指しているのでなく「概念」である。「自国/他国」は「各国」と言い直されている。「国」を「概念」として提示したあとで「われらは」と言っている。
 これは世界に向けた宣言である。
 自民党の改憲草案にも「諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。」ということばはあるのだが、最後は「諸外国」「世界」を脇に押しやって、「日本国」のことだけを言っている。
 だから「理念」として、気持ちが悪い。他者を排斥しているから、ぞっとする。

日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。(自民党憲法改正草案)

自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。(現行憲法)

 「日本」に焦点をあてた「視野狭窄」の自民党憲法改正草案には、「対等」という思想が欠けている。これは裏を返せば「日本が優秀である」という「独断」によってつくられた「改憲草案」であることがわかる。「良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承する」というのは、「ドイツ民族のよく伝統を末永く子孫に継承する」という「理念」のためにユダヤ人を抹殺したヒトラーの思想そのものではないか。
 「先の大戦」に負けたが、日本は「正しい」。負けたのは「間違っていた」からではなく「大災害」だったのだという「声」が隠れている。

 自民党の改憲草案では、もっぱら「第九章 緊急事態」が取り上げられるが、細部のひとつひとつの「改変」を見落としてはならない。
 「緊急事態条項」でも、

我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、

 と、「外部からの武力攻撃(戦争)」と「自然災害」が同列に書かれているが、これはすでに「前文」に書かれていることである。「前文」に書かれているからこそ、そこで書き足りないものが補足されているのである。
 「内乱等による社会秩序の混乱」ということばは「前文」になかったものであり、「こっそり」とつけくわえられているとも言える。そして、その「こっそり」に注目するなら、これこそが自民党憲法改正草案の「いちばん重要な部分」ということができる。
 「外国が攻めてきた、大変だ、戦争だ。自衛隊の皆さん、助けて。」というのは、わかりやすく、きっとだれも反対しない。「大地震だ。自衛隊の皆さん、助けて。自衛隊がいてほんとうに助かった。」も受け入れられるだろう。
 けれど「社会秩序の混乱」って、何?
 たとえば、私がこうやって自民党の憲法改正草案を取り上げて、これはおかしい。日本だけが特別な国であって、その国を守るために国民は国(安倍)の独裁を受け入れないといけないというような憲法はおかしいと言い続けると、それは「社会秩序を混乱させる」ということで、自衛隊を派遣して拘束しろ、ネットを切断しろ、パソコンを奪え(文書を抹消しろ)ということにだって、なりかねないのだ。私の発言のどこに問題がある? 誰かが疑問に思って問い合わせても「秘密保護法」の対象で答えられないということになるかもしれない。
 すでに「改正しやすいところ/受け入れられやすいところから改正する」云々という「方法」が聞こえてくるが、「細部」を見逃してはいけない。


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