詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-19)

2017-05-19 08:06:22 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-19)(2017年05月19日)

37 サルビア

だが 無口な鳥たちは帰る
夕方 遠くの空を 鎖のようにつながつて

 書き出しの二行。「だが」は何に対して「だが」なのか説明されない。明らかにされない「過去」があるということだけが、明かされる。「秘密」が暗示される。読者はその「秘密」に誘い込まれながらことばを追いかける。
 「無口」は何のために無口なのか。もともと無口なのではなく、口を閉ざさなければならない理由があって無口になる。ここにも「過去」がある。「帰る」ということばにも、秘密の「過去」がある。そこまで行ったから「帰る」のである。
 一羽ではない。「鎖のようにつながつて」とあるのだから。
 しかし、私はここから「誤読」する。何羽かいるのだが、嵯峨が感じているのは「一羽」である、と。それぞれの「鳥」が同じような「過去」を持っている。「同じ過去」をもつものだけが、つらなる手をつなぐ。「連帯」である。そして、つながることで、より明確に「一羽」になる。つまり、「同じ過去」の「同じ」が深くなる。
 「夕方」が、その「深さ」を静かに感じさせる。

ぼくは小さな証(あかし)のなかで燃え尽きた

イヴ・ボンヌフオワの「サルビアの永遠の中に」とある
あるサルビアの小さな炎の中に

 イヴ・ボンヌフオワの「サルビアの永遠の中に」を知っていれば知っていていることにこしたことはない。しかし、その方が「理解」が深まるかどうか、私は疑問に感じている。知らない方がきっといい。それは「過去」なのだ。「過去の秘密」だ。「過去」というものは「秘密」を持っている、ということは誰もが知っている。そのことが重要なのだと思う。
 イヴ・ボンヌフオワの「サルビアの永遠の中に」を知ってしまうと、「過去の秘密」は「秘密」ではなくなる。そうすると「秘密」にこころがふるえるという詩の感覚が消えてしまう。
 私は、そう思っている。

38 MU山荘で

一つの<時>を他の時から分かとうと
ぼくにむかつてひたむきに顔をあげる女よ
遠くの方で
そのとき誰かが叫んでいる

 「誰か」とは「誰」か。女の中の、「あの時」の女か。あるいは、ぼくの中の「あの時」のぼくか。それとも、まったく別の人か。それはまったく別の人であっても、女であり、同時にぼくである。
 私たち「誤読」する。
 「他人」を「私」と思う。「私の感じていることと同じ」と思う。それが「誰か」という存在を気づかせるのである。



嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社


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