詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋山基夫『月光浮遊抄』

2017-07-11 00:50:37 | 詩集
秋山基夫『月光浮遊抄』(思潮社、2017年07月01日発行)

 秋山基夫『月光浮遊抄』は古典と行き来している。ということはわかるが、私は古典を知らない。感想を書こうとしても、どうにも書きようがないというのが正直なところ。

 とはいっても、おもしろいと感じることがあるので、古典は無視して感想を書こう。
 方法論としては「消尽の記」という作品がいちばんおもしろいというか、この詩集の特徴をあらわしている。6の断章(?)からなりたっている。そして、それぞれに番号がふられている。ただし、順序が違う。「3、4、1、2、5、0」と並んでいる。ページ順に読んでもいいし、番号順に読み直してもいいということだろう。
 ということは。
 「時間」というものが「過去-現在-未来」という具合に直線上を動いていっていないということになる。順序をかえても「いま」はある。というよりも、「時間」には「いま」しかない。どんな「過去」も思い浮かべて瞬間に「いま」としてあらわれてくる。一時間前のことも、一年前のことも、千年前のことも、「思い浮かぶる」という「動詞」のなかでは「いま」そのものとして動く。
 「過去」はないし、「未来」もない。「いま」のなかにすべてが融合する。「時間」を自由に動き回り、「いま」をさまざまにとらえなおす。
 でも、こういう方法論というか、理屈に対する感想を書いてもしようがない気がする。とても巧みにできている、と言ってしまえばおしまいだし、こういうことは詩を具体的に読まなくても書くことができるからである。
 で、読まなくても書ける感想というもの、少し書いてみれば、こういうことになる。

 あることばがある。それは「過去」の文脈のなかで「ひとつの意味」をもっている。それを「過去」から引き剥がし、別の「時間」にもってくる。「いま」にもってくる。「いま」のことばに「過去」のことばが結びつけられると、そこには新しい「意味」が動き始める。その「新しい動き」は反作用のようにして、「いま」ある他のことばにも影響し、その「意味」を少しずつかえていく。つまり「意味」の領域が動き始める。
 とはいうものの、どのようなことばも単独で存在しているわけではない。それぞれのことばがいくつものことばと結びついて、一定の「文化」のようなものをつくっている。
 だから「意味の領域」が動くということは、「文化(世界)」のあり方が動くというとこでもあるのだが、このときの「世界」の交渉には、単独のことばだけを見ることではとらえきれないものがある。無意識の「連続性」というものがあり、それがどうしても「世界」を限定してしまうという側面がある。
 これを破るのがほんとうの詩だが、限界を(領域を)破ろうとして、逆に「敗れてしまう」ときもあって、それはそれで詩という形をとってしまう。破ったのか、敗れたのかは問題ではなく、交渉し、そこで何かが動いたということが詩なのだと言いなおしてしまうと、もう何を言っているのかわからなくなる。
 こういうことが「論理」というか「批評」の一番の問題点である、と別なことを書いて、読まずに書く「感想」をいったん閉じておこう。
 「消尽の記」については、これ以上書かないことにする。



 美しい詩だなあと感じたのは「河童池の昼と夜」。ほんとうに美しいのか、会社の近くの堀にはハスの花が咲いていて、月の出ていた日にそれを見たために美しいと感じたのかよくわからない。どんな「ことば/詩」も「現実」とどこかで交渉してしまうところがあるからなあ、と思う。
 あ、余計なことを書いたか。
 全行引用する。

日が昇ると睡蓮の花は目を覚ます
日が西に傾くとまた眠りにはいる
かすかな風が池の面を吹いて行き
浮かんだ葉っぱもいくぶん揺れる

月が昇ると暗い池の水が光りだす
睡蓮の花は闇を内部に抱きしめる
蛙らは葉っぱに乗っかり眠りこみ
白い皿のような月が水中で揺れる

 「対」の構造がとてもおもしろい。
 「日が昇ると睡蓮の花は目を覚ます/日が西に傾くとまた眠りにはいる」には「朝日」と「夕日」の「対」があり、それが「目を覚ます」「眠る」と「対」を強調する。このとき「眠る」を「眠りにはいる」と書いているのがとても刺激的だ。「眠る」という動詞をつかわず「眠り」という名詞にしたあと、「入る」という新しい動詞で動かす。
 そのとき「入る」の「主語」は何?
 文法的(?)には「睡蓮の花」ということになるが、妙に「肉体」が刺激されて、私の場合は、私が「はいる」という感じに受けとめてしまう。そして、その瞬間、私は「睡蓮の花」になって動いているように思えるのだ。
 「眠る」「眠り込む」という動詞だったら、「睡蓮」の客観的(?)描写に見えただろうと思う。でも、そこに「予想外」の「はいる」という動詞があったために、私は不思議な感じで詩に取り込まれたのである。
 この一連目の「日」は二連目の「月」と「対」になっている。
 「日」も「月」も「明るい」のだが、月は「暗さ」といっしょにある「明るさ」である。だから、「月」は「暗い」ということばと結びつきながら「光(光りだす)」ということばを揺り動かし、目覚めさせる。「月」と「暗い」が「対」になり、「月」のある「天」と地上の「水」がまた「対」を生み出す。
 この「暗い」は「闇」となって二行目を動かすのだが。
 このとき「闇を内部に抱き締める」ということばの「つながり」--これがねえ、なんともいえず「文化的」なのだ。そこに「文化の領域」(伝統の領域)というものを私は感じるなあ。
 闇を内部に抱きしめることで、睡蓮の花の表面(外側)が逆に光を発するような錯覚を抱く。月が昇ると水が光るように、睡蓮は闇を抱くと光る。美しい色になる、というような錯覚に誘われる。「対」が生み出す幻が開くのだ。
 そのあと「葉っぱ」が出てきて、これは一連目の「葉っぱ」と「対」なのだが、睡蓮の花の夢(内部に闇を抱きしめ、その外側が光る)、睡蓮の眠り込んだ姿を浮かび上がらせながら、もう一度「月」に戻る。
 「月」は昇ったはずなのに、いま「水中」で揺れる。「天」と「地(水)」が「対」になっているだけではなく、「月」は「水」に浮かぶことを超えて、「水中」で揺れる。この「水中」ということばには、ほら、「眠りにはいる」の「はいる」が動いていない? 「月」は水のなかに「はいる」。
 睡蓮が「闇を内部に抱きしめる」とき、水は「月を(ひかりを)内部に抱きしめる」、あるいは「水の中に抱かれて月は光る」。このどこまでもどこまでも「対」を誘うように動くようなことば--これがとても美しい。

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