詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川上未映子「乳と卵」

2008-02-12 11:51:31 | その他(音楽、小説etc)
文藝春秋 2008年 03月号 [雑誌]

文藝春秋

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 魅力的な文章が随所に出てくる。思わず傍線を引いてしまったのは次の部分。

 饅頭と一緒に出されたスープの統制の碗は少し欠けており、あ、あぶないかも、とわたしは思ったのやけど、それを知らずにそこから飲んだ緑子の唇がぷつっと小さくひっかかって点として破れることを想像してしまう、今日まだ一言も口をきかない緑子の唇のなかには、真っ赤な血がぎゅっとつまっていてうねっていて集められ、薄い粘膜一枚でそこにたっぷりと留められてある、針の本当の先端で刺したぐらいの微小な穴から、スープの中に血が一滴、二滴と落ちて、しかし緑子はそれには気づかず、白いスープのゆるい底に丸い血は溶けることなくそのまま滑り沈んでいくのに、やっぱりそれに気づかずにその陶器の中身の全部を自分ですべて飲み干してしまう。

 現実の細部をていねいに描くことばをそのまま「想像」が引き継いでゆく。そして、その現実は「想像」のなかでいっそう濃密な細部を手に入れる。「想像」が頭の中だけで完結するのではなく、頭の中から体の中、肉体の内部へと侵入してゆき、肉体として目の前にあらわれる。
 この感じを、「あ、あぶないかも、とわたしは思ったのやけど、」という関西弁(大阪弁)を組み込むことで、肉体の感じをいっそう強める。関西弁(大阪弁)でも頭でことばを動かすことにかわりはないだろうけれど、関西弁(大阪弁)の口語のままの呼吸でことばが動いてゆくとき、そこには頭(頭でっかち)という感じが消える。あくまで自分の肉体になじんだことばが、肉体を引きずって動いてゆく感じがする。
 「緑子の唇のなかには、」以後が特におもしろい。丸く膨らんだ赤い血の玉が見えるようだ。「想像」ではなく、まるで実際に目撃したものを描いているかのように感じられる。
 ことばが肉体のなかを動いてゆくので、必然的に、ことばが現実になってしまう。肉体を持ってしまうのかもしれない。
 「想像」と現実の境目が、「わたしは思ったのやけど」という関西弁(大阪弁)によって越境されてしまう。現実と「想像」を越境するのに、関西弁(大阪弁)が巧みにつかわれているのである。
 このあとの文章が、またすばらしい。

 濡れた、その薄い唇が合わさるすきまに赤い丸の輪郭がちゅるっと消えて、消えて、消えて、とやってると、どんがらがっがんという派手に爆発する音が聞こえて、それに重なるようにオルゴールのなんか繊細な音も聴こえて、それは中華料理屋の店員がいきなりテレビをつけたためでもあり、そのテレビは神棚のような変色した頼りない木星の備えつけの台にはみ出ながら置かれてあり、(略)

 「想像」としか思えない「どんがらがっがんという派手に爆発する音が聞こえて、それに重なるようにオルゴールのなんか繊細な音も聴こえて、」が、実は「現実」の音であることが知らされる。そして、そこからその現実が呼び起こす不安(省略したが、引用文のあとにはテレビが落ちるのではないか、という現実の「想像」)が描かれる。その屈折の分岐点にも「とやってると、」という口語が巧みに、すばやく挿入されている。「とやっていると」がもし「想像していると」だと、この文章は一気に色あせるだろう。リアリティーをなくすだろう。口語(あるいは関西弁、大阪弁)が引き起こすリアリティーを利用しながら、川上は、現実と「想像」、「想像」と現実を軽々と越境する。そして、そういう越境こそが肉体のなかに(あるいは肉体とともに)ある現実なのだと告げる。

 この文体は、そして「標準語」の文体への挑戦でもある。

 あの人な、云うで、『子どもが出来るのは突き詰めて考えれば誰のせいでもない、誰の仕業でもいないことである、子どもは、いや、この場合は、緑子は、というべきだろう、本質的にいえば緑子の誕生が、発生が、誰かの意図および作為であるわけがないのだし、孕むということは人為ではないよ』って、嘘くさい標準語でな、このままをゆうてん。

 「嘘くさい標準語」。「標準語」は肉体を持たない。そして肉体を持たないということは、実は、頭を持たないということに等しい。それはただ架空を動いてゆくだけである。実際の人間の肉体のなかを動いてはゆかない。肉体をなかを動いてゆかないから「嘘くさい」のである。
 その「嘘くささ」を川上は、前後を関西弁(大阪弁)で挟み込むことによって強調している。ことばとは論理ではない。論理を越境するなにかなのである。

 現実と「想像」を軽々と越境し、往復する文体。--これが川上の作り上げたものである。この文体で、次に何を書くのか。どんなふうに流通していることばの「枠」を越境するのか。それが楽しみだ。
 また、このことばの「越境」は「小説」というよりも、「詩」の仕事に近い。いまここにあることばへの批判・批評とともに「詩」の言語はつかわれる。(いまあることばへの批判・批評をふくまないことばは「詩」ではない、という意味である。川上は「小説」という形式を仮ながら、大胆な「詩」、現代詩の実験をしているのだとも思った。
 詩を書いているひと、詩人こそが読むべき作品である。

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