詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

萩野なつみ『遠葬』

2016-10-01 11:12:46 | 詩集
萩野なつみ『遠葬』(思潮社、2016年09月25日発行)

 萩野なつみ『遠葬』を読むと、ことばの「美しさ」にとまどう。ことばは、こんなに美しかったか。
 いま、私は、詩集を読み返しているのだが、その最初に読み返す詩(つまり、二度目の最初の詩、巻頭の詩)、「朝に」。

百葉箱のしろさを
おぼえていますか、あの
伸びきったみどりにかこわれた
少しくさりかけた足と
すずやかな、夏

 「くさりかけた」ということばさえ、直前の「少し」によって美しくなる。あ、意識は「くさる」という「動詞」から「少し」という「比較」という「形容詞」の方に重点を置いているということがわかる。
 この「形容詞」とは何だろうか。
 この詩の書き出しは、百葉箱を描写している。百葉箱を、それがある場(たとえばまわりに草が生えている)と一緒に描いている。百葉箱は白い。その箱を支えている脚(足)は雨などが跳ね返した泥で汚れている。腐りかけているようにも見える。季節は、夏。たぶん、夏休みだろう。
 そういう「状況/ものの存在同士の関係」のなかで「しろい」「みどり」「すずやかな」という「形容詞/形容動詞」が書かれている。「伸びきった」「かこわれた」も「動詞」そのものというよりも「修飾語(形容詞)」の働きをしている。「形容詞」が過剰に書かれている、ということになるかもしれない。
 で、再び思うのだが、「形容詞」とは何だろうか。
 百葉箱は「もの/存在」、それを修飾する「しろい」は「もの/存在」と比べると、「存在力(?)」が少し弱い。「もの/存在」が変化せずにそこにあるのに対して、何か「変化していくもの」に思える。たとえば百葉箱の脚も白いはずだが、跳ね返った泥で汚れ「くさりかけ」ているように見える。「形容詞」には、何か、「判断/主観」のようなものが含まれている。「私」というものがあり、それが「もの/存在」を特徴的にとらえるためにつけくわえたもののようにも思える。百葉箱が「もの/存在」だとすれば、「しろい」という「形容詞」は「意識/精神」として考えてみることもできるかもしれない。「形容詞」は「もの/存在」に属するというよりも、「もの/存在」を認識する「私」が、その「もの/存在」に与えた「特徴」と考えてみることができるかもしれない。
 あるいは、「形容詞」とは「もの/存在」に対して、「私」が付け加えた「イメージ」と呼んでみることができるかもしれない。百葉箱は「もの/存在」。「しろい」は、その百葉箱のイメージ。それはつまり百葉箱と「私」をつなぐ何かなのだ。
 ここには百葉箱(もの/存在)-しろい(形容詞)-私(認識する精神)という関係がある。「しろい」を取り除いてしまうと、「もの/存在」と「私」が切断されてしまう。イメージは「もの/存在」と「私」を結びつける「接着剤」のようなものなのだ。
 で。
 この「接着剤」のようなものに対して、萩野はおもしろいことばをつかっている。

おぼえていますか

 「おぼえている/おぼえる/記憶する」という「動詞」が、「もの/存在」と「私」をつなぐのだ。このとき「おぼえていますか」と問われたのは百葉箱というよりも「しろい」というイメージであり、また「伸びきったみどりにかこわれた」というイメージであり、「少しくさりかけた足」というイメージであり、「すずやかな」というイメージなのだ。百葉箱という「もの/存在」を目の前に出現させるいくつものイメージ、それを記憶しているかと問いかける。そのイメージが全部つながったとき百葉箱のある「世界」があらわれる。
 「もの/存在」を「おぼえている形容詞として思い出す」という形で、「いま/ここ」に再び生み出されるときに、そこに「イメージ」が噴出してくる。その「イメージ」こそが「私」を代弁する。「もの/存在」が「私」とは別個に存在する何かなのに対して、「イメージ」は「私」そのものなのだ。「イメージ」によって、萩野は「私」を語っている、と言いなおすことができるかもしれない。「記憶」によって「私」を「いま/ここ」に生み出し続けると言ってもいい。
 あらると行間に「おぼえていますか」(私はおぼえている)ということばを補って読むことができる。そこに書かれているのは「もの/存在」ではなく、萩野が「もの/存在」をつかみとるときの「イメージ/萩野の精神」なのだ。
 「もの/存在」と「私/意識」という「二元論」が「イメージ」のなかで融合する。つながる。「おぼえている」という「動詞」を媒介にしてつながっている。そのつながり方が「イメージ」であるからこそ、それが「美しい」。何か「ととのえられている」という印象が「美しい」という感じを呼び覚ますのである。

仄暗い
抜け道を知っていた
岩場で切ったあしうらの
赤はサンダルの模様に
まぎれて消えた

 「赤」は血の色。「血」という「もの/存在」ではなく「赤」という「イメージ」で世界をととのえる。そのとき「消えた」のは「赤」という「色/イメージ」ではなく「血」そのものである。「イメージ」は残り、いま/ここに呼び出されるが、「もの/存在」は消される。そうやって「世界」はととのえられる。
 説明の順序が逆になったが、「仄暗い/抜け道を知っていた」の「知っていた」は「おぼえていた」である。「おぼえていた」ことを「おぼえている」。思い出す。そしてそのとき重要なのは「抜け道」が「仄暗い」ことである。この「仄暗い」は「あしうら」の「うら」とも「まぎれて消えた」の「まぎれる」「きえる」にも通じる。「血」を「赤」と言いなおすことの中にも、同じものがある、と言えばいいすぎになるだろうか。

うごけないでいるのです、
手の先に海
明け方にやわらかくしばられて
(音楽)
おぼれることを
わたしは望む

 これは「わたし(私)」のイメージであると同時に百葉箱のイメージでもある。「足」があるのに動けない百葉箱。同じく、足があるのに、足を切って動けない「わたし」。もちろん「わたし」の方は動こうと思えば動ける。だから「やわらかくしばられて」というイメージになる。その、動こうとすれば動けるというのは、百葉箱そのものとは合致しないが、「うごけないでいる」という瞬間は、ひとつのイメージとなってかさなる。
 イメージは、「もの/存在」のように、確固としたものではないのである。「わたし」の意識によって動くのである。「おぼえている」ことを「おもいだす」ときに、「わたし」そのものとして、そこにあらわれてくる。
 そのまま、ふと、「おぼれること」を「望む(夢見る)」、そうしたことを「おぼえている」。そして、この「動けないでいる」から「おぼれることを望む」への「飛躍(切断と接続)」の間に、「音楽」が入り込む、というのが萩野の大きな特徴である。
 「イメージ」というと「映像」、「目」の働き(力)が中心になるが、萩野の場合、これに「音楽/耳」がくわわる。ことばの「音」に何か共通した「しずかさ」があるが、その「しずかさ」が萩野の「音楽」である。
 「おぼれる」は間が敵イメージではなく、次のように言いなおされる。

ととのいすぎた呼吸
あいま あいま
気管をすりぬけるように
蜩が鳴いている
からだの奥で

 「呼吸」のなかに「おぼれる」という動詞につながるものがあるのだが、それは見イヴに静かだ。
 「しずかさ」は「ととのう」(ととのいすぎた)という「動詞」が生み出し、それは他のことばへとつながっていく。「呼吸」から「気管」へ、さらに「からだの奥」へ。この「からだの奥」ということばは、とてもおもしろい。「イメージ」が「からだの外」にあり、目で見えるのに対して、「音楽」は萩野の場合、「からだの奥」にあって、それは「呼吸」となって「からだ」の内外をつなぐ。あるいは入れ代わる。こういう「感覚」もの萩野は「おぼえている」。
 この運動は、イメージほど明確にことばにされていない。(ことばになっているのかもしれないが、私には、はっきりとはつかめない。ただ「しずかな音の響き」がことば全体に共通するものとして聞こえてくる。) 

百葉箱をぬける
風がまなうらをしめらせる
しろく改行されてゆく
朝を しずめて

 「ぬける」は二連目の「抜け道」と行き来する。「まなうら」は「あしうら」と響きあい、「しめる」は「しろさ」とも「仄暗い」の「仄」とも通い合う。何よりも「風」が「気管をすり抜ける」という「呼吸」そのものにかさなる。
 そうした「重なり」を「改行」することで、そこに「あいま」(余白)をつくり、その「余白(あいま)」の変化こそが、「ことば」にならない「イメージ」なのだ、と言えば萩野の詩の「全体の動き」をとらえることになるだろうか。「イメージ」は「完結」するのではなく「余白」を利用しながら変化する。その「変化」を「音楽(ことばの肉体の呼吸)」で統一する、ということかなあ。

 あ、だんだん抽象的になってきた。
 つまり、私の論理がいいかげんになってきた。「頭」が勝手にことばを動かしていて、「肉体」がついていっていない。
 これでは、何も言ったことならない。
 言いなおそう。

 萩野は「もの/存在」と「わたし」との関係を、あいだに「イメージ(視覚)」を置くことで統一しようとしている。そうやって「世界」を生み出そうとしている。そのとき、明確な意識ではないが、どこかで「音楽」が「イメージ」に働きかける。「音」を「呼吸」がととのえる。この無意識の動きが、イメージに「奥」をつくりだしている。
 それは、なんといえばいいのか、「音におぼれる」ような快感を思い起こさせる。自分の意思ではどうにもならないものに、つかまってしまう。それに動かされてしまう。自分が自分でなくなる、というのはかなり快感である。
 「イメージ」は絵画的だが、萩野の「本質」は音楽的なところにあるのかもしれない。「音楽」が「イメージ」をつきやぶって動くと詩の力が圧倒的になるかもしれない。「蜩が鳴く」というのでは、ちょっと違う感じがしてしまう。これでは「音楽」につかまっていない、「音楽」を客観的に聞いている感じ。「耳」が前面に出てきすぎる。 

 「花信風」には、「余白(あいま)」に「イメージ」を動かす、「あいま」を広げ、解放するという動きとは別の運動もある。ここに「音楽」があるかもしれない。

あなたの

わずかに伸びた爪から船が発つ気配がして、背骨をさぐる。そこここに点在するうつろな呼気の裂け目に足をひたせば、近く、真昼の葉ずれのような声で渡される無彩色のわかれ。舌にのせたままの明星を合わせて、うすくわらうあなたの、まなうらに明滅する春にいる。

 「余白」を埋める、いや「余白」の奥へ分け入っていくような感じ。ことばの「切断/飛躍」が句読点によって「接続」にかわるような不思議な印象。「呼吸(句読点)」が「余白(あいま)」を密着させる。妙な言い方になってしまうが、そういう感じだ。もしかすると、この「切断」を「接続」にかえてしまう「呼吸」が「音楽」というものかもしれない。
 改行のある詩では旋律が断片的だったが、ここでは旋律が長くうねり、「音楽の肉体」となって迫ってくる。
 そんなことをふと思ったが、これは私の「感覚の意見」。いつか、また考えてみよう。


遠葬
萩野 なつみ
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