詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

カニエ・ナハ『馬引く男』

2016-10-16 20:39:30 | 詩集
カニエ・ナハ『馬引く男』(カニエ・ナハ、2016年09月30日発行)

 カニエ・ナハ『馬引く男』の感想を書くには、私は不適切な人間である。理由は三つ(あるいは四つ)。
(1)私は目が悪い。したがって小さい文字を読むのがつらい。
(2)頭が悪い。句読点のはっきりしないことばをつかみきれない。
(3)覚えることが大嫌い。特に「動詞」と結びついていない「名詞」を。
(4)ずぼらである。

 この詩集は、とても変わった体裁になっている。
(1)最初に、タイトルなしの作品がおかれている。左ページに作品の二行が印刷されていて、それが次のページへと展開していく。これが、かなり長い。
(2)そのあとに「馬を引く男 カニエ・ナハ」と詩集のタイトル。「二〇一五年九月一日-二〇一六年九月一日」の文字。(一年間にわたって書かれたということだろうか。)それから「第一部 馬を引く男」という章分け(?)があり、作品群がつづく。
(3)ずーっと読み進むと「第二部 植物図鑑」があらわれる。しかし、作品はない。
(4)最後に目次がある。本文にはなかった作品のタイトルも書かれている。
 この風変わりな体裁は、何を意味するのか。
 カニエの「意図」はわからないが、私はこの「体裁」に気づく前、69ページからはじまる作品を読んだとき、あ、これは最初の長い作品の「注釈」なのだと思った。あるいは逆に、ここに書かれている作品群の「注釈」として、最初に長い作品が書かれているというべきなのかもしれないが。
 そう思った瞬間に、私は冒頭に書いた、私の「不適格性」に気づいたのである。
 (4)から言いなおした方がいいのかもしれない。私は「ずぼら」である。「注釈」つきの本に出合っても、私は「注釈」を読んだことがない。面倒くさいのである。だいたい文字が小さいから、それだけで読む気がしないし、読んで「わからない」ことは、注釈を読んでも「わかる」ことにはならない。意味を「知る」ことはできるかもしれないが、それは私の感覚では「わかる」ではない。ほんとうに必要なこと(わからなければならないこと)なら、そのうちに何度でも出てくる。そう考える。
 だから、私は、「覚える」ということを、しない。「覚える」ことが大嫌い。必要なことなら「覚えなくても」何度でも向こうからやってくる。そのうちに自然に「わかる」、自然に「身につく」という考え方である。
 で、「覚えない」、本文と「注釈」を交互に読んで「理解」を深めるというやり方ではなく、ただ、そこに書かれていることばを、なんだかわからないなあ、文字が小さくて読みにくいなあ、と思いながらただ読んでいく。そうすると、漠然と、あれっ、これはさっき読んだことと似ているなあ、ということがだんだんわかってくる。ずぼらな私にも何回か同じことばが繰り返されていることが、わかってくる。

にもかかわらず、長い時間、
それは、死後の年の
古い、風のようなもの
かなり破損している、
あなたの周りに放棄する
景色を
十年の歳月をかけて
曖昧になると
墓に刻まれた
文字が錯覚し始め
    
 これは69ページから70ページにかけてのことば。これが実際に「注釈」になっているのかどうかわからないが、詩集の最初におかれた作品のことばと、何か呼応するものがある。

みるとちょうど
幕を閉じた歴史は、
令下に、
動かされて
最後には
私がいた。
虚偽を生きてきた、
終わっていた世界の
取り戻すことのが不可能な
私たちが今、
持っているあらゆるものに
再び目を開いて、
関与する

 「長い時間」「死後」は「歴史」と重なる。「あなた」と「私」も交錯する。「あなたの周りに放棄する/景色」、言い換えると「放棄された/景色」とは「虚偽」のことか。「十年の歳月をかけて/曖昧になると/墓に刻まれた/文字」とは「墓碑銘」のことであり、それを私たちは「再び目を開いて、/関与する」。つまり、「不可能」を「取り戻」そうとする。墓碑銘を読み、死んだ人を意識の中に再生させるように、歴史を読み返しもう一度動かし直す。
 厳密な「対応」を指摘すべきなのかもしれないが、私は「あいまいな感じ」で、そこに「呼応」があると思うのである。
 69ページではなく、もっと早くに、そういう「呼応」を感じ取るべきなのかもしれないが、私は頭が悪いので、そこまで読んできて、あ、これは長い作品の「注釈」に違いないと思ったのである。あるいは逆かもしれないと思ったのである。(ここで、前の作品を読み直してみればいいのかもしれないが、私は、そういう面倒なことはしない。69ページで気づいたなら、私は、それくらいの鈍感さでことばと向き合っているというのが「事実」であって、前に戻って自分をととのえなおしてもしようがないと思うからである。)

 で、この「呼応」(私の「誤読」)のなかに、「本文」と「注釈」ということばと重なる感じで、最初の長い作品の、次のような部分がぱっと蘇る。実際は、あ、あそこに何か書いてあったなあと思い出し、そこへ引き返すのだが。
 それは……

馬は
起きようとするたびに、
頭を打って
ほとんど死んで
死ぬことによって
否定する

 「起きようとするたびに」「死ぬ」。この不可解な、あるいは全体的な「反復」。それが「本文」と「注釈」の関係である。「本文」と「注釈」は「補完」というよりも、きっと互いの「否定」なのである。「否定」によって「生きている」ということを強調する。「生きる」意思があるから「死ぬ」。「死ぬ」から「生きている」ということがわかる。そういう関係にあるというか、カニエは「本文」と「注釈」を、そういう関係にしようとしている。

否定することで告白する、
紛れもない歴史の途方もない巨大な消失点があって
それを通じて、初めて、見て、結果として、知る
あるひとつの単純な事実

 この部分で印象的なのは「巨大(歴史)」と「消失点」ということばの対比である。「大きなもの」と「小さなもの」。「大きい」は「巨大」、「小さい」は「消失点」の「点」のことである。
 何か、「大きなもの」と対抗するために小さなものが強調されているようにも感じる。言い換えると「歴史」に対して「いま」、「世界」に対して「個」と言えばいいのか。こういう関係を「本文」と「注釈」にあてはめればいいのかもしれない。ここでは「注釈」のなかで「注釈」している感じだが、それを「本文」に応用できるように感じる。
 さらに次の部分。

逆さまの私であることを、証して、明らかに断って、馬は、なにを意味するではなく、何か、ただ、
現実を保っている、
私はそんな現実の一部として、無数の非常に、かつて生命だった、水の
壁を埋めるから、
埋めるから、
埋める、                     
馬は、


 「世界」と私が仮に読んだものを、カニエは「現実」と読んでいるのかもしれない。
「小さい」あるいは「点」は「一部」ということになるだろうか。その「対比」を、ここでは「否定」ではなく「逆さま」とか「断って」ということばでつかまえていると感じる。そのとき「小さいもの」「点」「一部」は「何を意味するかではなく、何か、ただ」というもの、いわば「無意味」として提示されている。
 「巨大なもの」(歴史/現実)には「意味」がある。しかし「小さいもの」「点」「一部」には、それと拮抗する「無意味」がある。「小さいもの」は「無意味」として存在しなければならない何かなのかもしれない。その「象徴」として「馬」がいる/ある、と読んでしまうと、しかし「馬」が「象徴」という「意味」になるかもしれない。「象徴」なのだけれど、「意味」に書き換えられないものとして、なんとか提示しようとしている。
 という具合に、私は読むのだが……。
 うーん、頭の悪い私は、読みながらつまずくのである。「否定する」「断つ」という「動詞」が頼りなのだが、なんといえばいいのか「歴史」(引用はしなかったが「戦争」ということばも、どこかにあったと記憶している)という「名詞」が巨大すぎて、そこに書かれていることが「意味」のように思えてしまうのである。「無意味」を「いのち」として「巨大なもの」と拮抗させようとしているのに、そういう「運動」が「意味」としてあらわれてしまうような気がして、困惑してしまう。「意味を断つ/意味を否定する」ものとしての「個(点)」の「馬」が「概念」になってしまう。私の「頭」では。
 私は、どうも「名詞」で「世界/現実」をとらえるということができない。「名詞」を覚えきれない、「名詞」を覚えるのが大嫌いという「性分」のせいかもしれない。

 だから、
 というのはいいかげんな言い訳なのだが、「本文」と「注釈」、あるいは「注釈」と「本文」という形で読み返し、「名詞」(巨大なことば)の呼応を確かめ、そのうえで「動詞」がどうつかわれているかを「分析」すれば、カニエの書こうとしていることがもっと鮮明に把握できるのだと予感するのだけれど、これは私には不得手のこと。頭が悪いから「名詞」が覚えられない。ずぼらなので、「名詞」を何度も行き来して確かめるというのも「性分」にあわない。そういうことをすれば、感じたことではなく、頭ででっちあげた「嘘」になってしまう。私の場合。
 だから、そういうことは頭のいい人の書く批評に任せたい。

 あ、追加しておく。
 「第二部 植物図鑑」と「空白」(あるいは無?)の関係は、長い詩の次の部分、

なぜ、植物図鑑か?
それは馬を逃がすこと

 と呼応している。この部分を読んだ瞬間、私は「植物図鑑」を鉛筆で丸く囲み、それを線で引っぱって、余白に☆マークを書いている。どうしてそうしたのかわからないが、あっ、このことば、それまで読んできたことばと違うと直感したのである。「歴史/時間」を縦の線と仮定すれば、「植物図鑑」は何か横の線、それまで書いてきたものと交錯するひろがりの形と感じたのかなあ。「馬を引く」の「引く」という「動詞」のなかに「時間」があるのに対し、「植物図鑑」には「動詞」がないこと、図鑑の中には「もの(名詞)」がただ散らばっている(ほんとうは「規則」という時間があるのだろうけれど)ことから、そう感じたのかなあ。
 忘れてしまった。たぶん「本文」と「注釈」という「関係」を思いついた瞬間に。何の役にも立たないが、メモのかわりに書き加えておく。
馬引く男
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