詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白井知子「少年ヴォロージャ」、弓田弓子「あした土曜日」

2016-09-15 09:01:32 | 詩(雑誌・同人誌)
白井知子「少年ヴォロージャ」、弓田弓子「あした土曜日」(「幻竜」24、2016年09月20日発行)

 白井知子「少年ヴォロージャ」は、「つながる」ということばがキーワードである。南コーカサス・グルジアのムツヘタ、リラさんの家。「迷い込むようにして」家の奥へ進む。裏庭の「逆光のなかから 少年の蒼い影が近づいてくる」。その少年が二階の部屋へ階段を上ってくる。

リラさんの民家が
十歳になる少年ヴォロージャの夏の家につながっていたなんて--
グルジア西部 クタシイ県のバグダジ村
わたしは屋根裏部屋にしのびこむ
小窓をあけると もう宵闇
<屋外にとびだし 露のおりた草むらで 仰向けに 大の字になり 星空をな
 がめているのは
ヴォロージャ少年>
つんつんしていた草がしっとりと
一晩中 星座の位置をみつけているなんて
星座のずっと向こうから<未来>がやってくるのを
ヴォロージャ少年は待っている

 場所が違っているから、ここに書かれている「つながっていた」は「事実」そのものではない。離れている。けれど、白井が「つなげた」のである。
 さらに、それは

菩提樹の薫る 四月のモスクワの通り
ルビャンスキー横丁三番にまでつながっていたなんて--

ヴォロージャ あらため
詩人 ウラジミール・マヤコフスキー 三十七歳の勉強部屋
机のうえのメモがき 電気スタンド インク壺
かれは 追い詰められていた
裏切り者を熟知し
秘密警察の手口にはだれよりも詳しかった
女優 ヴェロニカとの愛をもっても救えなかった

<部屋には硝煙がたちこめていた 仰向けに 大の字になり 両手両足を広げ
 ライオンのごとく吠えている
床に磔にされたマヤコフスキー>

 これも、白井が「つなげる」のである。
 詩は、さらに「グルジアのゴリ市 靴職人の家につながることがあり」という行を経由して、スターリンにも「つながる」。いや、白井が「つなげる」。そうすると、そこに離ればなれの場所と時間が「歴史」として浮かび上がる。「悲劇」が浮かび上がる。
 「歴史」も「悲劇」も、だれかが「つなげる」ことによって、「いま/ここ」にあらわれてくる。違う人間が、同じことを、違う「歴史」として「つなげる」ことも可能である。
 だからこそ、どう「つなげる」かが問題になる。
 「仰向けに 大の字になり」という、少年とマヤコフスキーを重ねる(つなげる)ときの「肉体/動詞」が強い。「肉体」と「動詞」を見つけ出し、そのことによって、それは「私たち」ともつながる。
 だれでも「仰向けに 大の字にな」ることができる。そして、星空を眺めることもできれば、磔にされて「吠える」こともできる。
 このときマヤコフスキーが「読者」になるだけではない。スターリンも「読者」になるのだ。複数のものと「つながる」とき、そこに「事件」が「事実」として蘇る。
 こういうことを「理屈/論理」ではなく、実際に、その「事件」の現場に肉体を置くことでつかんできたことばと一緒に白井は書いている。
 詩の引用が前後するが、「リラさんのお宅」での食事がこんなふうに描かれる。

ピザ風のパン 子牛 米 ミルクを煮込んだスープ
羊肉のミンチに米やハーブをまぜ 葡萄の葉でつつんだドルマ
スモモ 葡萄 果物の砂糖漬けまで……

 この「具体的な食べ物」が、それを食べたであろうヴォロージャ少年の肉体となり、マヤコフスキーの肉体となるだけではない。そこに生きている人すべての肉体となることで、マヤコフスキーの「悲劇」は、一緒に暮らしていた人すべての(国民)の「事件」になる。同時に、それを食べた白井の「肉体」の「悲劇」ともなる。
 本で調べて「つなげる」のではなく、その土地へ行って、その土地のひとと一緒に暮らす(ものを食べる)ということを通して、「肉体」の「事件」として、白井はとらえ直している。そういう強さがことばを支えている。



 弓田弓子「あした土曜日」。

あした
土曜日
風呂みがき

あした
土曜日
雑草ぬき

あした
土曜日
大根おろし

あした
土曜日
鰯とぶ

 という具合で「あした/土曜日」が繰り返されながら、三行目のことばが次々に変わる。このとき、「あした」というのはいつのことだろう。「あした」と書かれているが、そして「土曜日」とも書かれているが、それは「現実のあした/きょうの次の日」ではない。「あした」一日で、そこに書かれていることを全部するのではない。それは別々の「土曜日」におこなわれる、別々のことなのである。でも、その別々のものを「あした」が「つなげる」。「あした」は「名詞」ではなく「動詞」なのだ。「あしたは……する」の「する」という「動詞」、それを「する」と思う「気持ち」。「肉体」が「……する」とき、それが「あした」という「事実」になる。
 「……する」とは書かれていない。書かれていないけれど、私は、そう補って「誤読」する。そうすると、楽しくなる。
漂う雌型
白井 知子
思潮社

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