詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-18)

2017-05-18 07:05:21 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-18)(2017年05月18日)

35 *(たれも横切らなかつた)

たれも横切らなかつた
その無人の庭を庭と知らずにふるえている小草の上を
鳥はするどく啼きかわしながら高い空をわたつていつた

 二行目の「知らずに」が詩である。「知る」というのは「理性」の動き。「草」には「理性」はない。けれども「理性」があるかのようにとらえる。「比喩」である。そして「比喩」は「人格化」であり、自己投影でもある。
 これは詩人による、自然の「誤読」、あるいは世界に対する「誤読」というものだが、「誤読」だからこそ、そこに引き込まれていく。
 「理性」を否定される魔力がある。知らなかったものが、「誤読」といっしょに動き、生き始めてくる。

なにもかも無意味だと知つたものはどこへも立ち去らず
死の庭でひとり死んだ
その死のなかに何が残つたか
いな 死は確実な死であるためには何も残さない

 「誤読」を「論理」と呼び変えてもいい。それまで存在しなかった「論理」が動き始める。この「論理」を詩に変えていくのは、詩人の「感性」である。

36 (ぼくは追い立てられる)

一枚のゆづり葉のなかの海
その暗緑の起源を知るものはいつかその海で溺れ死ぬだろう

 「ゆづり葉」のなかに「海」は存在しない。「海」は「比喩」であり、「比喩」は「誤読」である。
 「誤読」としての「海」を発見したものは、その「発見」の「論理」にしたがって、「海」に「溺れる」しかない。溺れ死ぬしかない。
 しかし、詩は不思議なものだ。「論理」を破壊するものが、突然、あらわれてくる。「論理」を破壊して、「いのち」を解放する。

それでもぼくは信じよう
おまえの脈搏の霙の中に
ぼくの生と死がたえず打たれつづけるのを

 ここに書かれていることの「意味」を正確につかみとろうとしても無駄である。いや、そういうことはすべきではない。「意味」を追い求めてはいけないのだ。「論理」は破壊され、いのちが解放されているという感じだけをつかみとればいい。
 「論理」の破壊が「それでも」という「論理的」なことばで始まるのは、嵯峨の詩の特徴である。「理性的」なのだ。



嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社



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