監督 山田洋次
出演 木村拓哉
、檀れい、坂東三津五郎
木村拓哉がご飯を食べるとき最後に必ずお湯をもらう。最後の一口をお茶漬けにする。これは茶碗と箸を洗っているのである。食べ終わると布巾で茶碗の内側を拭き、茶碗をしまう。箸もしまう。武士の世界の節約、その節約が生み出す「美」が丁寧に丁寧に描かれている。こうした部分はおもしろい。木村拓哉が失明したあと一族が集まり今後どうするか相談するところも、おもしろい。だれが木村拓哉の面倒を見るか−−これは「食い扶持」がかかっているだけに大問題なのである。武士が食うことがいかに大変か、は、そこに「美意識」のようなものが絡んでくるからなんだなあ、ということがわかるのでおもしろい。檀れいが食堂の店員(?)でも何でもやると言うと、そんな仕事をさせるわけにはいかない、と一族が反対するところに「美意識」が如実にあらわれている。この「美意識」は「みえ」と置き換えることもできると思う。
そして、「美意識」を「みえ」と読み替えるとき、それは自分が他人からどう見られるかという問題にかわる。どう生きるかではなく、どう見られるか、という問題に置き換えられる。そして、そのふたつは似ているようでありながら、大きく違う。ご飯の最後にお湯をもらい、茶碗をあらうのをかねてお茶漬けをすするという「美意識」は同時に自分自身の節約、生活をまもるということと直結する。食堂で女中をやるのは許せないという「みえ」は、生活を否定する。
「武士の一分」では「美意識」と「みえ」が交錯しながら展開する。そして、その結果、ちょっと変なことが起きる。映画が破綻する。「決闘」のことである。
決闘において大切なことは、ひとつは、自分が強いこと。自己の腕を磨くこと。自分自身がひとつの「美」として完成することである。もうひとつは、相手をよく知ること。その強さも弱点も知ること。
傑作「たそがれ清兵衛
」では敵役は長刀づかいであることが紹介されていた。真田広之は室内では長刀が存分に振り回せないことを知っている。だからこそ室内で戦うことを選んでいる。そして、その長刀が最後の最後で、油断から(勝ったと思った気の弛みから)大まわしになり、鴨居にひっかかり、真田を切りそこねる。そのすきに真田が相手を切るという劇的展開へとつながる。
そういう「他人」の研究に対する丁寧さがこの映画では欠けていた。「意識」と実際の行動の分析が欠けていた。「他人」が欠落したまま、木村拓哉がどうするか、ということだけに焦点があたりすぎていた。それが、とてもとてもこの映画を甘いものにしている。「恋愛映画」(?)だから甘くてもいいのかもしれないが、「決闘」の部分で「美意識」が崩れ、人情になってしまうので、これはちょっと違うのではないのか、と思ってしまうのだ。木村拓哉は決闘にあたり「免許皆伝」のときの「ことば」を復唱するが、そういう「精神論」ではなく、ご飯の最後にはお湯をもらって茶碗をあらいながら食べるというのような実際の具体的な行動として「美意識」が貫かれないと、甘さだけが浮き立ってしまう。
「美意識」はむしろ木村拓哉に破れた方で完遂する。だれに切られたか言わない。なぜきられたか言わない。沈黙を守るために自害する。そこには恥ずべきことをしたという自覚がある。この自覚が「美意識」である。
木村拓哉の方の「美意識」は仇(?)が貫いた「美意識」を壊さないようにして沈黙を守り、妻を守り、ひっそりといままでの生活をつづけるというなかでしか完成されない。この奇妙な結末はカタルシスになり得ない。カタルシスになりえないと山田洋次もわかっているのだろう。わかっているから最後は「お涙」で終わる。涙で観客をごまかしてしまう。木村拓哉と檀れいが元の夫婦に戻れてよかった、よかった、で終わる。
そのとき「武士の一分」とはなんだったのか、ちょっと見失う。思い出さなければならない。これではなあ、と思う。「詩」(美意識)が「涙」で曇ってしまった映画である。
*
美しいなあ、と感じたシーンもある。たとえば蛍のシーン。障子にとまった蛍の光がぼーっとゆれる。蛍はまだかと失明した木村拓哉が問う。檀れいはまだだと答える。その答えに木村はどんなふうに納得したのだろうか。何も語られない。ほんとうに蛍はまだなのか。蛍はでているけれど、目の見えない木村に蛍がでているとつたえることはつらいと思い言わなかったのか。木村がどう納得したか説明しないで、ただ、蛍と二人の会話だけをさしだす。
ここに「美」の深みがある。共有される「意識」がある。それが「詩」である。
木村拓哉がご飯を食べるとき最後に必ずお湯をもらう。最後の一口をお茶漬けにする。これは茶碗と箸を洗っているのである。食べ終わると布巾で茶碗の内側を拭き、茶碗をしまう。箸もしまう。武士の世界の節約、その節約が生み出す「美」が丁寧に丁寧に描かれている。こうした部分はおもしろい。木村拓哉が失明したあと一族が集まり今後どうするか相談するところも、おもしろい。だれが木村拓哉の面倒を見るか−−これは「食い扶持」がかかっているだけに大問題なのである。武士が食うことがいかに大変か、は、そこに「美意識」のようなものが絡んでくるからなんだなあ、ということがわかるのでおもしろい。檀れいが食堂の店員(?)でも何でもやると言うと、そんな仕事をさせるわけにはいかない、と一族が反対するところに「美意識」が如実にあらわれている。この「美意識」は「みえ」と置き換えることもできると思う。
そして、「美意識」を「みえ」と読み替えるとき、それは自分が他人からどう見られるかという問題にかわる。どう生きるかではなく、どう見られるか、という問題に置き換えられる。そして、そのふたつは似ているようでありながら、大きく違う。ご飯の最後にお湯をもらい、茶碗をあらうのをかねてお茶漬けをすするという「美意識」は同時に自分自身の節約、生活をまもるということと直結する。食堂で女中をやるのは許せないという「みえ」は、生活を否定する。
「武士の一分」では「美意識」と「みえ」が交錯しながら展開する。そして、その結果、ちょっと変なことが起きる。映画が破綻する。「決闘」のことである。
決闘において大切なことは、ひとつは、自分が強いこと。自己の腕を磨くこと。自分自身がひとつの「美」として完成することである。もうひとつは、相手をよく知ること。その強さも弱点も知ること。
傑作「たそがれ清兵衛
そういう「他人」の研究に対する丁寧さがこの映画では欠けていた。「意識」と実際の行動の分析が欠けていた。「他人」が欠落したまま、木村拓哉がどうするか、ということだけに焦点があたりすぎていた。それが、とてもとてもこの映画を甘いものにしている。「恋愛映画」(?)だから甘くてもいいのかもしれないが、「決闘」の部分で「美意識」が崩れ、人情になってしまうので、これはちょっと違うのではないのか、と思ってしまうのだ。木村拓哉は決闘にあたり「免許皆伝」のときの「ことば」を復唱するが、そういう「精神論」ではなく、ご飯の最後にはお湯をもらって茶碗をあらいながら食べるというのような実際の具体的な行動として「美意識」が貫かれないと、甘さだけが浮き立ってしまう。
「美意識」はむしろ木村拓哉に破れた方で完遂する。だれに切られたか言わない。なぜきられたか言わない。沈黙を守るために自害する。そこには恥ずべきことをしたという自覚がある。この自覚が「美意識」である。
木村拓哉の方の「美意識」は仇(?)が貫いた「美意識」を壊さないようにして沈黙を守り、妻を守り、ひっそりといままでの生活をつづけるというなかでしか完成されない。この奇妙な結末はカタルシスになり得ない。カタルシスになりえないと山田洋次もわかっているのだろう。わかっているから最後は「お涙」で終わる。涙で観客をごまかしてしまう。木村拓哉と檀れいが元の夫婦に戻れてよかった、よかった、で終わる。
そのとき「武士の一分」とはなんだったのか、ちょっと見失う。思い出さなければならない。これではなあ、と思う。「詩」(美意識)が「涙」で曇ってしまった映画である。
*
美しいなあ、と感じたシーンもある。たとえば蛍のシーン。障子にとまった蛍の光がぼーっとゆれる。蛍はまだかと失明した木村拓哉が問う。檀れいはまだだと答える。その答えに木村はどんなふうに納得したのだろうか。何も語られない。ほんとうに蛍はまだなのか。蛍はでているけれど、目の見えない木村に蛍がでているとつたえることはつらいと思い言わなかったのか。木村がどう納得したか説明しないで、ただ、蛍と二人の会話だけをさしだす。
ここに「美」の深みがある。共有される「意識」がある。それが「詩」である。












「美意識」と「みえ」参考になりました。
キムタクの盲目の演技、なかなかよかったと思います。
TBありがとうございました。
ありがとうございます。
>「他人」の研究に対する丁寧さがこの映画では欠けていた。
なにか違和感を感じたこの映画の足りないところがスキッと分かりました。
そこでした。
いままで山田洋次がこだわったところと何かが違うと感じたのですが、画面の方にとらわれてました。
なるほど。
鶴岡出身なので、今回の藤沢シリーズは我がことのように思えましたが、世に藤沢ありと印象付けてくれたのは嬉しい限りでした。
>美しいなあ、と感じたシーンもある。
>たとえば蛍のシーン
画面から季節感や美意識を感じされました・・
あと、質素な食事に日本人の原点を見る思いが。
決闘シーン・・・
原作では、決闘相手を最後一刀両断にし、沈黙を守る
妻が戻ってくるのは、一緒ですけど・・。
「武士の一分」は、副題<愛妻物語>としたら
良かったかも・・。
ひとつ、私なりの考えなんですが、新之丞は島田がいつも正々堂々とした武士だとは思っていなかったのでは?と思います。人の妻を卑怯な手を使って、しかも弱みに付け込んてもてあそぶ、そういう人間だと、知っていたと思うのです。つまり、そこが弱点だと。まさか廃屋の屋根にあがって、自分の気配を消して・・・などとは予想もしなかったでしょうが、それでも、それくらいのことをするのを想定内だったのでは?と思うんです。それにしても、それに準備することは描かれてはいませんでしたね。
また島田が決闘の相手の名前を言わなかったのは、
恥ずべきことをしたという美意識とともに、盲目の武士に敗れたことを知られたくないという感情も働いたのでは?と思いました。
谷内さんの記事で、またまたこの映画について考え、一層味わい深いものになりました。ありがとうございました。
木村拓哉は盲目になってから目で演技をしていましたね。
難を言えば歯並びが「現代人」。
sakuraiさん
なじみの場所がスクリーンに映ると親近感が一気に生まれますね。
そういう視点から映画を見ることができるのはうらやましい。
スナッチャーさん
食事のシーンは私も大好きです。
原作は読んでいないけれど、どうも映画の方がリアリティーがある描き方ですね。
ビンゴさん
島田の人間性がもう少し丁寧に描かれていればよかったと思います。木村拓哉が島田の性格を知っていたかどうかは難しいですね。あの時代、上の方の人間と下の方の武士はいまの社会とは違って交流がなかったのでは。
とっても興味深く読ませて頂きました☆
食事のシーンはもちろんのこと、あの時代の日々の生活を丁寧に描いたシーンはいつも感心しながら観てしまいます。
節約が生み出す「美」、素晴らしいです!
確かに、新之丞は大して何も会得していないようなのに、偶然勝ってしまったみたいに見えてなんかヘン…と思った人もたくさんいたかもしれませんねw
なぜ「まだ」と答えたのかが、私には未だにわからなくって。。。
>「詩」
ですか・・。なるほどなご意見ですね。
木村拓哉主演の『武士の一分』を観てきました。
盲目の武士を、木村拓哉が見事に演じておりました。
美術もカメラワークも、流石プロの仕事と感じ入ります。
ただ、達也的には、庄内の雄大な自然のロケーションも観たかった・・・。
欲張りですよね。木村拓哉を主演に起用した地点で、
京都のスタジオも、長期ロケもありえません。
しかし、それを補って余りある、山田×藤沢周平ワールドを
楽しませていただきました。
光と妻を失った後のキムタクは、往年の市川雷蔵の妖しささえ感じ゛られました。
加世役の檀れいも、凛としたたたずまいが素敵でしたし。
@ トラバさせてくださいね
島田が沈黙を守って自害するというのが意外な展開でもあり、そこに島田の「武士の一分」をみてうれしくなりました。
三部作がこれで終わるとなると寂しいです。
TBありがとうございます。
『たそがれ清兵衛』に比べると、厳しさに欠けるな、と思っていたのですが、その原因がどこにあるのかわかりませんでした。
谷内さんの記事を読んで、なるほど、と思いました。
興味深く読ませていただきました。
ありがとうございます。