詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河江伊久『冬の夜、しずかな声がして』

2016-12-28 09:59:50 | 詩集
河江伊久『冬の夜、しずかな声がして』(ミッドナイト・プレス、2016年10月28日発行)

 河江伊久『冬の夜、しずかな声がして』には「散文詩」が多い。小さなストーリーという感じもする。ストーリーといっても、「結末」があるわけではない。あるのかもしれないが、私は「結末」よりも、ことばが動いていく動き方の方がおもしろいと感じた。
 ただ、私の感じ方は「誤読」としかいいようのないものかもしれないので、このまま感想を書いていいのかどうか、ずいぶん迷った。
 「六本木猫坂」の書き出し。

丹阿弥坂と四十五度の角度で交わっている小さな坂がある。
名もない小さな坂だが猫には居心地がよい場所らしく、その姿を見かけない
日はない。二つの坂が交わった所に小さな二階家があり、外階段が張り出し
ている。その天辺に黒猫がいて、下から三段目に雉猫がいる。二匹は睨み合
うでもなく、見つめ合っているわけでもない。

 二行目の「その」というのは「猫」のことである。「猫の姿を見かけない日はない」と河江は書いている。
 わかっているのだが、私は「誤読」する。
 「その」を「二つの坂」と読んでしまう。「二つの坂を見かけない日はない」と読む。さらに「二つの坂」のうち「名もない坂」と読んでしまう。名もない坂だから「その」という指し示しを「名前」のかわりにしてしまう。そしてそこを通るたびに「その坂」を見てしまう。
 「坂」は動かないから、常にそこある。「見かけない日」ということがある方がおかしい。でも、なぜか、そう読んでしまい、「そうか、そこに来るたびに河江は坂が交わっていることを確かめるのだな」と思う。
 坂が二つ交わっているという「事実の確認」があって、それが次第に「事実」を広げていく。そのひとつが「猫」である。その坂に「猫がいる」。それから「二階家」がある。「外階段」がある。もし坂が交わっていなかったら、そのすべてが「ない」。そう感じる。「四十五度」で「交わる」という坂のあり方が「二つの坂」を生み出し、そこから「猫」や「二階家」「外階段」がさらに生み出されていく。
 それが証拠に。
 「名もない小さな坂だが猫には居心地がよい場所らしく」と書かれていた「猫」はいつのまにか「坂」ではなく「外階段の天辺」と「下から三段目」に「黒猫」と「雉猫」にかわってしまって、「外階段」にいる。「居心地のよい場所」は「坂」ではない。「外階段」である。
 で。
 と区切ってしまうのは、私の「飛躍」なのだが。
 「その天辺に黒猫がいて」というときの「その」は「外階段」だね。この「その」を私は「誤読」しないのだが、その「誤読しない」が逆に「誤読」だと私は感じてしまう。
 奇妙な言い方になるが、ここでも私は「猫」を忘れてしまう。「猫」よりも「階段の天辺」と「下から三段目」の方に「視線」が集中してしまう。
 妙にずれるのだ。
 「猫」が描かれているのに、「猫」ではないものの方が「具体的」に見えてきて、「猫」はその「具体的なもの」の陰に隠れていく。まるで「猫」が「具体的なもの」を次々に生み出していく。
 あれっ、最初、私は「坂」が他のものを生み出していく、と書いたのではなかったっけ? そう書いたはずである。それが「その天辺に」の「その」を読んだ瞬間から、とらえどころのない何かに引っぱられて、「猫」が他のものを生み出していくと感じている。
 「坂」が「猫」を生み出し、「二階家」「外階段」生み出したように、「猫」が「外階段の天辺」と「下から三段目」を生み出す。
 「ストーリー」が進むに連れて、更に変わっていく。生み出されるものが変わっていく。

 「その」ということばには不思議な力がある。魔力がある。
 「その」とは「指し示し」である。「意識」の持続というか、引きずりというか、粘着力というか。よくわからないが、何かをつないでゆく。その「つなぎ(持続)」のために、本来なら「個別」の存在であるべきものが、どこかで「融合」する。
 「坂」と「猫」は「その」ということばで結びついて、入れ替わる。特定できなくなる。「猫」と「階段」も「その」ということばで結びついて、入れ替わる。特定できないというよりも、どっちがどっちでもいいという感じ。
 この詩には、このあと「男(風来坊)」が登場する。この男には、

男もその一人かと思っていた。

 という具合に、また「その」がついて回っているのだが、たぶん「その」があるために「わたし」とくっついてしまう。「わたし」が「その男」を呼び寄せる。

ある日、わたしが外階段の下に座ると、雉猫が隣に移動してきた。黒猫と雉
猫、風来坊とわたしが外階段の上と下に向き合って座っている、ただそれだ
けだ。

猫たちはそうやって対話しているのかもしれないが、人間たちは違う。見つ
め合うのはつらいので互いに違う方向を見ている。わたしがたまたまそこを
通りかかったついでに、座ったまでだ。そこを通りかかると、つい座りたく
なる。すると、雉猫がわたしの隣に移動してくる。そして猫と人間の二組が
向き合う図になる。

 と、ここまで読んで、私はまた「はっ」とする。「誤読」する。「誤読」だと気づきながらも、その「誤読」のなかに入っていってしまう。
 「二組」ということば。これが「その」なのだと気づく。
 「その」という「指し示し」があるとき、そこには必ず「対象」と「対象を意識するもの」が存在する。「二」が存在し、それが「組」になっている。そして、それが「組」であるからこそ、相互に入れ替わりが可能なのだ。
 「二」はすでに「二つの坂」「二匹」という形で出てきている。「二階家」にも「二」がある。「外階段」にも「天辺」と「下から三段目」という「二つの一」がある。それは単に「二」ではなく「組」である。
 入れ替わり可能とはいうものの、その「二」は違った存在なので、完全には入れ替われない。入れ替わるためには何かを捨てる、あるいは何かを身につけないといけない。「捨てる」と「身につける」が交錯しながら、「二」にはなかったものを生み出し続ける。
 これを「組」の力と読むことができる。河江の詩なかに「キーワード」を探すとしたら、「組」ということになる。
 「組」は「組む」という「動詞」からうまれている。「組む」は「かかわる」でもある。「その」という「指し示し」が「組む」を過剰にする。刺戟する。つまり、傍らを通りすぎるのではなく、「絡み合う」という形で動き、絡み合いが何かを生み出すのだ。
 これが河江のことばの運動かもしれない。

 これでは「批評」にはならないし、「感想」にもならない。つまり「論理的」に言及したことにならないのだが、何かに引っぱられて、私はこんなことを考えたのだった。

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