詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

夏目美知子「歩く、歩く秋」、斎藤健一「並列」

2017-03-13 10:51:41 | 詩(雑誌・同人誌)
夏目美知子「歩く、歩く秋」、斎藤健一「並列」(「乾河」2017年02月01日発行)

 夏目美知子「歩く、歩く秋」は金木犀のことを書いているのだが。

風吹く通りを歩く。脚は勝手に家に向かって動く。家へは
このまま真っ直ぐだが、道は左右あちこちで分かれている。

 ここがおもしろかった。「真っ直ぐ」はほんとうに直線かどうかわからない。家に帰るときは、何度角を曲がっても曲がったことを意識しないだろう。「勝手に」というは意識しないで、ということだろう。「真っ直ぐ」という意識しかないだろうと思う。
 言い換えると、「寄り道しないで、真っ直ぐ帰るんだよ」というときの「真っ直ぐ」が「意識の真っ直ぐ」である。
 その曲がりながらの「真っ直ぐ」に「左右に」道が分かれていく。この「左右あちこちで分かれている」も、しかし、ふつうは気にならないだろう。この気にならないことを思わず気にしてしまうところ(意識してしまうところ)に「正直」が出ていて、それが突然、次のように変わっていく。
 「寄り道しないで、真っ直ぐ帰るんだよ」とは違った(違ってしまう)真っ直ぐがあるとこに気づくのである。

晩年の父が、散髪に出掛けて、電話をして来たことがある。
「店が見つからない」慌てて迎えに行き、憔悴した父を連
れて帰る。あの時、父の中で街の地図が動いたのだろう。

 認知症が突然出てきた父、と言ってしまえばそうなのだろうが。それを「父の中で街の地図が動いた」というときの「動き」と、最初に引用した「脚は勝手に家に向かって動く」の「動く」という「動詞」の重なりが、何か刺戟的だ。
 そうなのかという思いと、そんなはずはないという思いがぶつかり、私はここで「誤読」したくなるのだ。
 父は「真っ直ぐ」に行ったはずなのである。足は勝手に理髪店へ、真っ直ぐに動いたはずなのである。通い慣れた理髪店だから、家に帰るように足は勝手に、つまりに「真っ直ぐ」に動く。どこの角を曲がるか、そういうことを意識しない。
 でも迷ってしまった。道を失ってしまった。「真っ直ぐ」が「真っ直ぐ」ではなくなってしまった。
 それを夏目は、いったん「街の地図が動いた」と書く。これはとても「理性的」は世界のとらえ方で、そういわれればそうなのだ、と納得してしまうが、どうも「道に迷ったとき」の私の「肉体」の感じとは違う。だから、これはおかしいのではないだろうか、と異議を唱えたくなるのである。
 「地図が動いた」のではなく「街が動いた」のではないのか。
 実際、このあとの夏目の描写を読むと「街が動く」という感じがしてくる。

枝分かれした道を行く。風が背中を押してくる。迷い込む
と解っていて、更に歩く。両側にも前方にも家があって、
間に果物屋や喫茶店、新聞の配達所や古い赤いポスト、歯
医者が挟まっている。

 ここが、とてもおもしろい。家があらわれてくる。果物屋があらわれ、喫茶店があらわれる。それはまるで街の底から植物が生える感じで、増殖してくる感じ。「歯医者が挟まっている」の「挟まっている」はむりやりそこに生えてきた感じ、あるいは動いてきて割り込んだ感じがする。
 足は勝手に動く。無意識に「真っ直ぐ」に動く。無意識だから、間違えるはずがない。
 間違えるのは街の方なのだ。街の方が、動かなくていいのに勝手に動いている。こんな不条理は許されていいはずがない。
 道に迷ったときの感じ、とくに認知症のひとが道に迷うというのは、こういうことなんだろうなあ。無意識が無意識でなくなる。「真っ直ぐ」が途切れる。そうすると、その目覚めた意識(途切れ目に噴出してくる意識)にあわせるように、街が動いてしまう。不意に目覚めた意識に街の方がすりよってきて、辻褄を合わせようとして、さらに整合性がとれなくなる。
 おっ、すごい、と思うのだが。

          地図は私を乗せて広がる。過ぎた日
があり、未来がある。向こうに、父が行こうとした散髪屋
が見える。角に交番。空き地もある。開墾や憧憬や苛立ち
がこびりついていて、私は引き返すことが出来ない。最後
は港に出る筈だ。左右の赤と白の灯台。歩く間、言葉は現
れては消え、消えては現れる。

 「地図」が出てきて、それが「過去」(過ぎた日)と重なる。「地図」というのは「整えられた過去(意識)」だとわかる。夏目の書きたかったことは「時間」なのだとわかるのだが。
 私は、夏目の「街」のなかで勝手に迷ってしまって、勝手に見てしまった街の方が好きなのである。あそこは魅力的だったなあ、と「誤読」したいのである。
 「真っ直ぐ」と「真っ直ぐの途切れ目」がなまなましくて、おもしろい。「真っ直ぐ」を手放さずに動いていくと、詩はもっとおもしろくなると思う。それは夏目の書きたいものとは違うかもしれないけれど。



 斎藤健一「並列」でも私は「誤読」する。

臆病な訪問。第九歩。口ごもる如く階段。夏空の中の明
るく。好奇に富んだあどけない頬。出会いがしらに突き
当たる。年わかい女の知らない。テーブルやパンの陶器。
奉公人は赤ん坊の手当をはじめる。ドアー光線。気むず
かしいのである。編んだ髪はゆたかな金色。いくらか沈
む。

 「臆病な訪問」の「主語」は誰か。だれが訪問したのか。訪問してきたのか。「好奇に富んだあどけない頬」ということばから、幼い少女(あるいは赤ん坊)が訪問してきた、と読んでみる。幼い少女(赤ん坊)だから、ひとりできたわけではないだろう。「年わかい女」は母親かもしれない。幼い少女(赤ん坊)は「テーブルやパンの陶器」に好奇心を向けている。「脈絡」を読者にまかせて、斎藤は描写を、あえて切断した形で「並列」している。
 その切断へ「気むずかしいのである」ということばが割り込む。「誰」が「気むずかしい」のだろう。幼い少女(赤ん坊)か。そうかもしれない。
 そうかもしれないと思いながら、私は、ここから「脱線」し、「誤読」する。幼い少女の「気むずかしさ」に「並列」するかたちで、斎藤自身が動いている。斎藤が気むずかしいというのではない。気むずかしさを受け止めて、それをそのまま守っている。守られて、「ゆたかな金色」の「ゆたかな」ということばが生まれてくる。
 感情の「叙述」が隠れている。並列された描写に感情の叙述が隠れながら並列している。それがとぎれとぎれを、強い力で「真っ直ぐ」にしている。

 二つの作品をつないだことにはならないかもしれないが。
 二つの作品を読みながら、何が「真っ直ぐ」につながっているか。「真っ直ぐ」がある瞬間に切断されたとき、そこに何が噴出してきて「真っ直ぐ」を整えるのか、ということを考えてみたいという気持ちになった。
 他人には「曲がって(迷って)」歩いているように見えても、ひとは「真っ直ぐ」にしか歩けない。「真っ直ぐ」なのに「曲がっている」と言われてしまう。その「無意識」(自己)と「意識」(他人)の関係を、どう言いなおすことができるか。まだ、わからない。だから、これは「感想」以前の「メモ」ということになるのだけれど。

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