覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』(3)(ナナロク社、2017年10月15日発行)
覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』には詩作品だけではなく、対談が組み込まれている。裏話、のようなものである。私はその人がどんな気持ちでその作品を書いたかとか、その作品のことばの背景にどんなことがあったか、ということは気にしない。自分のことばとどう違うか、ということだけを手がかりに作品を読む。だから、たいていは「解説」のようなものは読まないのだが、なんとなく読んでしまった。
そこで、こんな部分に出会う。「対詩リハーサル」
私は、覚の「シュール」ということばにびっくりしてしまった。「指栞」って、言わない? 栞がないから、とりあえず「指」を挟んで本を持ち歩く。
谷川はこのあと「指は栞になっていないんですよね。読みかけのページに挟むことはできるけれども」とフォロー(?)しているけれど。
私は、この「指栞」からことばが独立して「指なんかどうかな」ということばが出てきていると思ったので、ここはシュールではなく、「現実」そのものと思った。「現実」の指を、そのまま栞にできればいいなあ。これって、どうしてシュール? 体験そのものに基づいているでしょ?
「貝 雲母」という部分には、私は「現実」ではなく、「きざ」を感じる。「作為」と言ってもいい。それって、いわゆる「詩」そのもの、「詩とは華麗な想像力」という「幻想」にあわせただけの「ことば」に見えてしまう。
で。
なんというか、こういう部分で、私は自分とは違う「ことば」に出会った感覚になる。覚は「指栞」をしないひとなんだ。「栞」と聞いて、その後で「指」ということばを聞いて、そこで自分の「肉体」を思い出さないひとなんだ、と驚き、立ち止まる。その瞬間が、あ、こういう瞬間も詩なのかなあ、と思う。
「ことば」と「肉体」の掴み方が違うのだと、あらためて思う。
「栞」というのは「名詞」だが、私は「栞を挟む」という具合に「動詞」といっしょにして覚えている。「貝を挟む」「雲母を挟む」。これを「きざ」と感じてしまうのは、私のまわりには「貝」とか「雲母」というものがなかったからだ。そういうものを「挟む」ということを私の「肉体」は覚えていない。想像はできるが、それを挟むときの自分の肉体の動きを実感できない。「他人」に見えてしまう。手の届かない他人。だから「きざ」と呼ぶことで、自分とは切り離すのだと思う。
それに、「紙」のあとにすぐ出てくる「木」、これは「枝折り」にすぐに結びつく。山歩きをする。そのとき、帰り道をまちがえないために、ところどころ枝を折って印をつける。これは山の中が遊び場だった私には、肉体になじんだことがらである。実際には「枝折り」が必要なところまで踏み込まないし、山といっても家の近くなので迷子になるということはないのだが、「こうやって印をつけておくと迷わない」というようなことを上級生から教えられて、それを覚えている。実際に小枝を折ってみたことも覚えている。
そしてこのときの「肉体」の「癖」のようなものは、栞がないとき、本のページの耳を折る、という「癖」につながっている。「ドッグイヤー」というらしいが。折って、それを目印にする。
「栞」は「挟む」と同時に「目印にする」(目印をつくる)という動詞につながっている。
私は「ことば」を「もの」をあらわしているものではなく、むしろ「こと」をあらわしているもの、そこには必ず「動詞/肉体」がいっしょにうごいているものとしてとらえたいという欲望のようなものがある。
ここから、詩へもどってみる。「栞」を挟んで、前後を引用すると、こうなる。
抽象的な「栞(意味の象徴)」が具体的な「紙」や「木」を経て、「指」で「シュール」に飛躍して、「妄想の恋」にかわる。指に恋する。声に恋する。書いた文字に恋する。指、声、手書き文字から、そのひとの「人格」を想像し、恋をするということか。
うーん、
何か「意味」がつならなりすぎて、味気ない。
なぜ「意味」がこんなに強くつながってしまったのか。
それを考えるとき、その瞬間、覚の「シュール」がよみがえってくる。そうか、「現実」ではなく「シュール」なのものを感じてしまったから、それを現実(肉体)に引き戻そうとする「反作用」のようなものが、覚のことばに働いているだな。
この対談の中で、谷川は、こんなことも言っている。
覚はこれに対して「そうかもしれません」とこたえている。
私の感じでは、覚が谷川に対して感じる以上に、谷川が覚のことばに対して「共通点」を感じているのだと思う。(*)
それは、この「栞」を含んだ詩で、「栞」がそのままおなじことばでひきつがれているところにも感じる。「対詩」の「対」になることを忘れるくらい、谷川は直前の覚の詩に同化してしまったのだ。
何に反応したのか。
引用が前後するが、対談で、谷川はこう語っている。
「忘れる」(忘れられて)に反応して「栞」の意識が少し変化している。「栞」は忘れないためのもの(目印)なのだけれど、忘れてしまう。
で。
こういうことを書くと「深読み」と言われるだろうけれど。
「指栞」の「指」は「忘れられて」、本に挟まれたままなのだ。本の中には「指」が残っている。「肉体」が残っている。
「肉体」はひとつだから、「指」だけが切り離されて本に挟まっているというのは、「肉体」そのものからみれば、それこそ「シュール」な現実ということになるが、「意識の肉体」としては、どうか。「栞」として挟んだ指は、そこに「忘れられて」置き去りにされているが、「指」につながる「肉体」が近づくと、「私はここにいる」と声を上げないか。「忘れられた指」がよみがえってくるということはないか。
「指」が覚えていて、その「指」が「私」そのものになって、いま、ここによみがえってくる。置き去りにされ、忘れられていた「指」が「肉体」にくっついてきて「私」を支配してしまうということはないか。
詩は、実際、そんなふうに展開していく。
谷川のことばは、覚が「妄想の恋」というところへ行ってしまった後、谷川自身の「指栞」へ引き返していく。それくらい「忘れる」と「栞」、「覚えている」と「栞」が「肉体」として谷川の中で結びついているということである。
どう展開するか。
谷川は「ダフニスとクロエー」を「指栞」をつかって読んだのだ。文字を指でたどって読んだかもしれない。「肉体」を総動員して読んだ。でも、役に立たなかった。そういうことは「忘れていた」。けれど思い出した。思い出して「永久保存する」。
ここに谷川の少年がいきいきと動いている。
このことを谷川は「実体験」と告白している。「実体験」というのは、「指」がよみがえってきて、過去を語り始めたということだね。「主役」が「いまの谷川」ではなく置き忘れてきた「指」に乗っ取られている。
そのあと、「実体験」のことを具体的に語っているけれど、まあ、そこは本を買って読んでください。
あ、だんだん脱線していくけれど。
こんなふうに谷川の「肉体」を引き出してしまうのは、覚のことば(音楽)のなかに、谷川と共通するもの、同時にその共通性があると感じさせる微妙な違い(刺戟)があるからだろうなあ、と思う。
対談を読まなければ違った感想になったかもしれないが、対談を読んだら、こんな感想になった。 対談を読む前は、つまらないなあ、と思っていたところが、とても生々しい動きに変わったのでびっくりしてしまった。
(* 共通点を強く感じさせる詩を覚からひとつ引用すると、126ページの20の詩。
を挙げることができる。「意味」の動かし方も似ているが、最後の「あかんぼうのきこえぬあくびに」が、私の「音」の感覚では谷川と区別がつかない。署名がなければ、谷川だと思ってしまう。)
(つづく、予定。)
*
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覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』には詩作品だけではなく、対談が組み込まれている。裏話、のようなものである。私はその人がどんな気持ちでその作品を書いたかとか、その作品のことばの背景にどんなことがあったか、ということは気にしない。自分のことばとどう違うか、ということだけを手がかりに作品を読む。だから、たいていは「解説」のようなものは読まないのだが、なんとなく読んでしまった。
そこで、こんな部分に出会う。「対詩リハーサル」
谷川
8 栞は薄いのがいいのだが
材質は紙だと平凡
木 鉄 貝 雲母 それとも指なんかどうかな
覚 指の栞ですか?
谷川 そう。
覚 うーん、すごいシュールですね。
私は、覚の「シュール」ということばにびっくりしてしまった。「指栞」って、言わない? 栞がないから、とりあえず「指」を挟んで本を持ち歩く。
谷川はこのあと「指は栞になっていないんですよね。読みかけのページに挟むことはできるけれども」とフォロー(?)しているけれど。
私は、この「指栞」からことばが独立して「指なんかどうかな」ということばが出てきていると思ったので、ここはシュールではなく、「現実」そのものと思った。「現実」の指を、そのまま栞にできればいいなあ。これって、どうしてシュール? 体験そのものに基づいているでしょ?
「貝 雲母」という部分には、私は「現実」ではなく、「きざ」を感じる。「作為」と言ってもいい。それって、いわゆる「詩」そのもの、「詩とは華麗な想像力」という「幻想」にあわせただけの「ことば」に見えてしまう。
で。
なんというか、こういう部分で、私は自分とは違う「ことば」に出会った感覚になる。覚は「指栞」をしないひとなんだ。「栞」と聞いて、その後で「指」ということばを聞いて、そこで自分の「肉体」を思い出さないひとなんだ、と驚き、立ち止まる。その瞬間が、あ、こういう瞬間も詩なのかなあ、と思う。
「ことば」と「肉体」の掴み方が違うのだと、あらためて思う。
「栞」というのは「名詞」だが、私は「栞を挟む」という具合に「動詞」といっしょにして覚えている。「貝を挟む」「雲母を挟む」。これを「きざ」と感じてしまうのは、私のまわりには「貝」とか「雲母」というものがなかったからだ。そういうものを「挟む」ということを私の「肉体」は覚えていない。想像はできるが、それを挟むときの自分の肉体の動きを実感できない。「他人」に見えてしまう。手の届かない他人。だから「きざ」と呼ぶことで、自分とは切り離すのだと思う。
それに、「紙」のあとにすぐ出てくる「木」、これは「枝折り」にすぐに結びつく。山歩きをする。そのとき、帰り道をまちがえないために、ところどころ枝を折って印をつける。これは山の中が遊び場だった私には、肉体になじんだことがらである。実際には「枝折り」が必要なところまで踏み込まないし、山といっても家の近くなので迷子になるということはないのだが、「こうやって印をつけておくと迷わない」というようなことを上級生から教えられて、それを覚えている。実際に小枝を折ってみたことも覚えている。
そしてこのときの「肉体」の「癖」のようなものは、栞がないとき、本のページの耳を折る、という「癖」につながっている。「ドッグイヤー」というらしいが。折って、それを目印にする。
「栞」は「挟む」と同時に「目印にする」(目印をつくる)という動詞につながっている。
私は「ことば」を「もの」をあらわしているものではなく、むしろ「こと」をあらわしているもの、そこには必ず「動詞/肉体」がいっしょにうごいているものとしてとらえたいという欲望のようなものがある。
ここから、詩へもどってみる。「栞」を挟んで、前後を引用すると、こうなる。
明け暮れは
工夫することのつらなり
日々という頁の間に挟んだ栞は
絶え間ない日射しに褪せて
いつか忘れられて
栞は薄いのがいいのだが
材質は紙だと平凡
木 鉄 貝 雲母 それとも指なんかどうかな
顔よりも指だな
あと 声かな
書き文字もしみじみしているといい
妄想で完結する恋がいい
35をすぎたら
抽象的な「栞(意味の象徴)」が具体的な「紙」や「木」を経て、「指」で「シュール」に飛躍して、「妄想の恋」にかわる。指に恋する。声に恋する。書いた文字に恋する。指、声、手書き文字から、そのひとの「人格」を想像し、恋をするということか。
うーん、
何か「意味」がつならなりすぎて、味気ない。
なぜ「意味」がこんなに強くつながってしまったのか。
それを考えるとき、その瞬間、覚の「シュール」がよみがえってくる。そうか、「現実」ではなく「シュール」なのものを感じてしまったから、それを現実(肉体)に引き戻そうとする「反作用」のようなものが、覚のことばに働いているだな。
この対談の中で、谷川は、こんなことも言っている。
僕と覚さんには、日本語の調べとかメロディとかリズムの感覚において、どこか共通点があるんじゃない?
覚はこれに対して「そうかもしれません」とこたえている。
私の感じでは、覚が谷川に対して感じる以上に、谷川が覚のことばに対して「共通点」を感じているのだと思う。(*)
それは、この「栞」を含んだ詩で、「栞」がそのままおなじことばでひきつがれているところにも感じる。「対詩」の「対」になることを忘れるくらい、谷川は直前の覚の詩に同化してしまったのだ。
何に反応したのか。
引用が前後するが、対談で、谷川はこう語っている。
忘れっぽい私としては、「いつか忘れられて」という最後の一行がすごくリアルでしたね(笑)。
「忘れる」(忘れられて)に反応して「栞」の意識が少し変化している。「栞」は忘れないためのもの(目印)なのだけれど、忘れてしまう。
で。
こういうことを書くと「深読み」と言われるだろうけれど。
「指栞」の「指」は「忘れられて」、本に挟まれたままなのだ。本の中には「指」が残っている。「肉体」が残っている。
「肉体」はひとつだから、「指」だけが切り離されて本に挟まっているというのは、「肉体」そのものからみれば、それこそ「シュール」な現実ということになるが、「意識の肉体」としては、どうか。「栞」として挟んだ指は、そこに「忘れられて」置き去りにされているが、「指」につながる「肉体」が近づくと、「私はここにいる」と声を上げないか。「忘れられた指」がよみがえってくるということはないか。
「指」が覚えていて、その「指」が「私」そのものになって、いま、ここによみがえってくる。置き去りにされ、忘れられていた「指」が「肉体」にくっついてきて「私」を支配してしまうということはないか。
詩は、実際、そんなふうに展開していく。
谷川のことばは、覚が「妄想の恋」というところへ行ってしまった後、谷川自身の「指栞」へ引き返していく。それくらい「忘れる」と「栞」、「覚えている」と「栞」が「肉体」として谷川の中で結びついているということである。
どう展開するか。
「ダフニスとクロエー」で学んだあのこと
実際には役に立たなかったから
思い出として永久保存する
谷川は「ダフニスとクロエー」を「指栞」をつかって読んだのだ。文字を指でたどって読んだかもしれない。「肉体」を総動員して読んだ。でも、役に立たなかった。そういうことは「忘れていた」。けれど思い出した。思い出して「永久保存する」。
ここに谷川の少年がいきいきと動いている。
このことを谷川は「実体験」と告白している。「実体験」というのは、「指」がよみがえってきて、過去を語り始めたということだね。「主役」が「いまの谷川」ではなく置き忘れてきた「指」に乗っ取られている。
そのあと、「実体験」のことを具体的に語っているけれど、まあ、そこは本を買って読んでください。
あ、だんだん脱線していくけれど。
こんなふうに谷川の「肉体」を引き出してしまうのは、覚のことば(音楽)のなかに、谷川と共通するもの、同時にその共通性があると感じさせる微妙な違い(刺戟)があるからだろうなあ、と思う。
対談を読まなければ違った感想になったかもしれないが、対談を読んだら、こんな感想になった。 対談を読む前は、つまらないなあ、と思っていたところが、とても生々しい動きに変わったのでびっくりしてしまった。
(* 共通点を強く感じさせる詩を覚からひとつ引用すると、126ページの20の詩。
かみさまがおられるとしたら
いろやかたちのなかにではなくて
おとのふるえやひびきのあいだに
たとえばあかんぼうのきこえぬあくびに
を挙げることができる。「意味」の動かし方も似ているが、最後の「あかんぼうのきこえぬあくびに」が、私の「音」の感覚では谷川と区別がつかない。署名がなければ、谷川だと思ってしまう。)
(つづく、予定。)
対詩 2馬力 | |
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