岬多可子「桜病院周辺、春」(「樹林」25、2007年03月16日発行)。
高見順賞受賞作『桜病院周辺
』のなかの一篇が転載されている。
春の倦怠感−−その体で感じる重力がとても自然だ。
「重い」と「思い」はことば遊びだが、思考が「遊ぶ」ことでしか動かない、そういう倦怠感と重なり合う。
重なるはずのないものが重なり合い、重なり合うことで動いていく。
それは、「八重の桜」と「重い」、「重い」と「熱帯の河」の水の「重さ」、さらには「熱帯の河」水の量、「嵩」(水嵩)へと揺れる。そしてそれは「自分」と「変化してしまった自分」、眠くて、体中が重くて、まるで「他人のように感じる自分」(他人)への移動を、まるで熱帯の大河の水が海や流れるように、ゆらゆらとたゆたいながら、自然に動かしていく。
ものうさ、倦怠とはたしかにこうしたものだと思う。
「重い」「思い」は重なり合って「重い思い」になる。「重い」といっても持ち上げられない重さではなく、「重い」と「思って」しまう程度の重さ。
「重い思い」はまた「思い思い」でもあるのか、思考はひとつにまとまることをいやがって、すぐにほかのことへと逃げていく。
「切断」ではなく「切、断、」。ほんらいひつとのものがばらばらになっている。倦怠感の重力は、思考を、そんなふうに分離させる。
倦怠感がそのままことばの肉体を獲得した、とてもすばらしい詩だと思う。
高見順賞受賞作『桜病院周辺
(重)
八重の桜が重くて
眠い。
熱帯の河を
暗い部屋に流れる映像で見ていると
自分の腕や脚が嵩を増し
他人のもののように思えてくる。
他人の腕や脚。
そんなものを運ぼうとしたら
重いだろうな、
思いどおりにならないだろうな。
春の
雨を含んだ夜に
ものを切、断、する音がある。
重くて眠い音。
春の倦怠感−−その体で感じる重力がとても自然だ。
他人の腕や脚。
そんなものを運ぼうとしたら
重いだろうな、
思いどおりにならないだろうな。
「重い」と「思い」はことば遊びだが、思考が「遊ぶ」ことでしか動かない、そういう倦怠感と重なり合う。
重なるはずのないものが重なり合い、重なり合うことで動いていく。
それは、「八重の桜」と「重い」、「重い」と「熱帯の河」の水の「重さ」、さらには「熱帯の河」水の量、「嵩」(水嵩)へと揺れる。そしてそれは「自分」と「変化してしまった自分」、眠くて、体中が重くて、まるで「他人のように感じる自分」(他人)への移動を、まるで熱帯の大河の水が海や流れるように、ゆらゆらとたゆたいながら、自然に動かしていく。
ものうさ、倦怠とはたしかにこうしたものだと思う。
「重い」「思い」は重なり合って「重い思い」になる。「重い」といっても持ち上げられない重さではなく、「重い」と「思って」しまう程度の重さ。
「重い思い」はまた「思い思い」でもあるのか、思考はひとつにまとまることをいやがって、すぐにほかのことへと逃げていく。
雨を含んだ夜に
ものを切、断、する音がある。
「切断」ではなく「切、断、」。ほんらいひつとのものがばらばらになっている。倦怠感の重力は、思考を、そんなふうに分離させる。
倦怠感がそのままことばの肉体を獲得した、とてもすばらしい詩だと思う。












