詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

貞久秀紀『具現』

2017-06-13 11:05:53 | 詩集
貞久秀紀『具現』(思潮社、2017年06月30日発行)

 貞久秀紀の詩を私ははっきりと覚えているわけではないのだが。そして、他の人の詩も記憶するということはないのだが。
 読み始めてすぐ、私は江代充の詩を思い出した。
 巻頭にあるタイトルのない4行。

日のあたる時と所に
みえているこの光景が
これと逐一同じべつのものだとしても
だれがちがいを語りうるだろう

 江代の文体とは違うところもある。もっとも、きちんとした比較ではなく、私の印象なのだが。「印象」なので、江代の作品を引いて比較はしないが。
 1行目から2行目への移行、1行目を2行目で言いなおすときの「みえている」という動詞の差し挟み方、「この」という指示代名詞での引き受け方、これは私の印象では江代の作品に多く見られるものである。
 この不思議な「ごつごつ」感を散文にして動かすと、小川国夫の文体になるとも思う。これも「印象」なので、まあ、いいかんげんなものなのだけれど。

 「例示」という作品。

きょう、やぶ道をきてひとつの所に立ち
それがこの岩であるときはみえずにいる雲が
おなじ岩の台座から
きのうの曇りぞらにとりわけ陰がちにかたまり
光につよくふちどられて
山の真上にかぎりあるちぎれ雲のすがたまで
高められ親しくながめらなたことは
その日そこに涌きいでたただひとつのことがらとして
指折り数えることができる

 1行目の「きて」「立ち」という動詞の「主語」は書かれていない「私」。2行目の「ある」「みえずにいる」の「主語」は「私」ではない。ずれがある。特に「みえずにいる」という微妙な「動詞」のつかい方から、私は、どうしても江代を思い出してしまう。「みえずにいる」を「みえない」と書き換えると「主語」は「私」になる。「主語」という言い方は、文法的には正しくないのかもしれないが。「私(主体)」には「みえない」ものを、「私」をとりはらって「客観化」すると「みえずにある」ということになる。「主語(私)」を消して、対象を「物理的(客観的)」に書くといえばいいのか。
 「陰がちにかたまる」「つよくふちどられる」「ちぎれる」というような「動詞」も「私」ではなく「存在(もの)」を「客観的」に描写するときの「動詞」である。それを「ながめられた」と言いなおす。「私」が「ながめた」ということだが、「私」を消し去って、「もの」のあり方として描く。
 「私」を消し去って「もの」を描く。--ここから私は小川国夫を思い、また志賀直哉を直感的に思い出すのだが、小川国夫にしろ志賀直哉にしろ、それは実際には「私」の消去ではなく、逆に「私」の絶対的な定着なのだが。
 「だが」「だが」と半端な形で書いてしまうのは、私は小川国夫の愛読者でもなければ、志賀直哉の愛読者でもなく、本屋で立ち読みしたくらいの印象しか持っていないからである。でも、感じてしまうのだ。
 江代は、その「私」の「絶対性」というものを、散文化できない文体、ねじれて、折れて、断面がむき出しになる文体で、「悲鳴」の強さで放り出している。
 貞久は、その江代の「ねじれて、折れて」という感じを、いまふう(?)に飛躍にしているという印象なのだが。
 貞久という「署名」がなければ、私はここに書かれている作品の多くを江代の作品と勘違いすると思う。具体的に対比すれば、たぶん全然似ていないのだろうけれど、「動詞」の「主語」がすりかわり、融合し、その変化のなかで「風景」が完成していくという世界のあり方、そういう「印象」を呼び覚ますところが似ている。

 これじゃあ、批評にならないか。
 私は批評ではなく、ただ感想を書いているのだから、仕方がないか。

具現
貞久 秀紀
思潮社

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