詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺玄英『渡辺玄英詩集』

2016-11-29 09:37:02 | 詩集
渡辺玄英『渡辺玄英詩集』(現代詩文庫232 、2016年10月30日発行)

 渡辺玄英を私が知ったのは『水道管のうえに犬は眠らない』。詩集のタイトルにもなっている「水道管のうえに犬は眠らない」がいまでも印象に残っている。渡辺は『海の上のコンビニ』『火曜日になったら戦争に行く』がよく話題になるが、最初に出会った渡辺の詩、第一印象について書いておきたい。

水道管が埋まっている
そのうえに
犬はけっして眠らない

 タイトルは「水道管のうえ」。それが静かに「水道管が埋まっている/そのうえに」と言いなおされている。水道管のうえに直接眠るのではなく、埋まっている水道管、見えない水道管のうえに、と言いなおされている。「距離」というか、「遠さ」が呼び込まれている。さらに「けっして」という強調も付け加えられている。「けっして」は「遠さ」をぐいと引きつける。「近い」ものにする。
 見えない(遠い)けれど、見える(近い)ものにする。ことばによって。ことばが世界を流動化する。
 この一連は、次のように言いなおされる。

眠っていると
耳から河が入ってきて
犬は川のうえを流されていく
はるか遠く
犬が犬である以前へと
それは夢さ と
ぼくはいえるか
その犬は ぼくでないと

 「見えない(水)」は、しかし「聞こえる(耳から入ってくる)」。河の流れる音になって。視覚と聴覚が融合する。
 「水道管のうえに眠らない」と一連目で書いているが、実は眠っている。水道管の埋まった上で、水道管のなかを流れる水の音を聞き、河の音を思い出す。そして、流されている。
 いや、そうではない。水道管の上で眠ると河を流されていく夢を見るので、水道管の上では眠らないようにしている。そう言いなおしている。
 どっちだろう。
 どっちでもない。つまり、どっちでもある。
 視覚と聴覚が交錯したように、意識(意味)も交錯する。それは一方を否定してしまうと他方も存在しなくなるような関係にある。からみあうことで、存在している。存在の強度を増す。
 この不思議な、「そうである(そのようにしてある)」という感覚の中で、「犬は犬である以前」という「遠い時間」へ帰っていく(流されていく)。この「帰っていく/流されていく」は「遠い時間」を「呼び出す」(いまに引きつける)ということでもある。
 この行に、私は犬塚堯を思い出す。犬塚は一時期福岡にいた。その縁で福岡の詩人との交流がある。渡辺も犬塚にあったことがあるのかもしれない。交流があったのかもしれない。
 すこし横道に逸れたが、遠く離れたものを引きつける、遠く離れているがゆえにそれを引きつけるという運動は、

それは夢さ と
ぼくはいえるか
その犬は ぼくでないと

 という三行で、「犬」と「ぼく」との交錯、融合になる。「ぼく」はあるときは「犬」になる。「犬」はあるときは「ぼく」になる。犬は犬のまま、ぼくはぼくのまま、とは断定できない。
 そのつど、ことばはいっしょに、「いま/ここ」にあらわれてくる。
 「ぼく」とは「なにもの」でもない。そして「なにもの」でもある。この「断定」の拒否、相対的関係の固定の拒否が、渡辺の「思想/肉体」であると、私は感じている。
 犬とぼくの交錯/融合は、さらに展開する。あたらしい世界をことばにもたらす。

ぼくが住んでいる公営アパートは
水道管がはりめぐらされ
水のなかを走るものがある
深夜 激しく旗を降る霊感がそれだ
そのころ公営アパートは夢を見ている
河を流れていく公営アパートの夢

 「犬」は「公営アパート」になる。「ぼく」は「公営アパート」になる。「犬」と「ぼく」の相対的固定化は、「アパート」によって否定される。破壊される、と言った方がいいかもしれない。途中に「激しさ」という、これもまた犬塚を思い起こさせることばが出てくるが、この相対化の固定を拒否する、すべてを流動的にとらえなおすという「思想/肉体」は、その後の渡辺のことばの運動につながっていると思う。
 アニメ、ゲーム、コンビニ、ケータイなどの現代的なものが詩に登場するので、「表層」とか「浮遊感」ということばで渡辺の詩は語られることが多いが、私は、もっと違うところに渡辺の「根」があると感じている。
 最終連。

翌朝には
知らない街にアパートは流されていて
ぼくらは耳から魚のしっぽをはやしたまま
もよりのバス停をさがしている
かたわらでは犬はまだ朝寝のさなか
ときおり前脚で風を切るしぐさをする

 「ぼく」は「ぼくら」になる。それは「複数」になるというよりも、「ぼく」を超えた「根源的な人間」になるということだろう。未生の「いのち」になる。「耳から魚のしっぽをはやした」という「人間以前」のいのちの痕跡。「ぼく」はまだ生まれてきていない。太古。遠い時代。そこでは「犬」は「狼」となって(狼にもどって)平原を駆けている。
 最後の一行がロマンチックなので、グロテスクないのちの根源のエネルギーは見えにくいが。
 「現在」の「相対的固定化」の否定は、未生の「時間」をめざしている。その「混沌/ヤクロテスク」から、瞬間瞬間に、新しい「ぼく」、新しい「犬」となって、誕生しなおしてくる。生まれ変わる。これは、新しい「ぼく」を生み出すということでもある。
 『海の上のコンビニ』以後の作品も、その思想を増殖/拡大/展開したものとして読むことができると思う。

渡辺玄英詩集 (現代詩文庫)
渡辺 玄英
思潮社

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