詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』(2)

2018-01-18 08:21:05 | 詩集
福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』(2)(港の人、2018年1月11日発行)

 きのうは書かなかった「好きな詩」というのは、「船霊さん」。島のおばあさんが「ボートに乗る作法」を教えてくれたという。「乗るときはなぁ 船霊(ふなだま)さんにちゃんと頼まなあかんよ」という。でも、こういうことは福田には納得がゆかない。
 (原文は行頭がそろっていないのだが、そろえた形で引用する。)

船霊さん どこにお祀りするんだろう
小さな舟だから祭壇もないだろうし
神様とか 鳥居とか キツネや犬 うさぎとかの動物の絵が書いてあるのかな?

ほれはのぉ 知らんのよ 誰も
知ったらあかんのよ 誰も

 ここが詩になっているのは、福田が自分のことばを総動員しているからである。「頭」ではなく「肉体」で覚えていることを引っ張りだしてきている。「霊に頼む」ということを福田は自分自身でしたことがないかもしれないが、おばあさんの世代が祈っているのは見たことがあるだろう。
 おばあさんの「頼む」ということばを手がかりに、「お祀り」ということばを思い起こしている。「祀る」から「祭壇」を呼び起こし、「神様」を呼び起こし、「鳥居」「キツネ」とことばが動いていく。神社、稲荷神社のキツネという具合だ。犬はこまいぬか。「うさぎ」というのは「いなばのうさぎ」だろうか。それは「解説書(あんちょこ)」には登場しないものである。「あんちょこ」があるかもしれないが、福田はそういうものに頼らずに自分の覚えていることを動かしている。そして、尋ねている。
 おばあさんは「知らんのよ」と言ったあと「知ったらあかんのよ」と答えている。これに対して、福田は、その答えを受け入れている。知らないのに存在しているといえるのか、なぜ知ってはいけないのかというようなことを問い詰めていない。
 きのう読んだ詩では、自分のことばを「エートス」と要約し、その「要約」を答えのように掲げていてたが、ここでは「答えのことば」がない。「知ったらあかん」、ことばにしてはいけないことがある。それを「そのようなもの」として受け入れている。
 この詩の最後。

シノさんは小舟に向かって掌をあわせた
私もシノさんに倣って掌をあわせた

 「頼む」「祈る」が「掌をあわせる」と言いなおされている。そしてそれは「肉体」でとらえなおされている。「掌をあわせる」ことが「頼む」「祈る」ことであると、福田はわかっている。「知っている(知識)」ではなく、「わかっている」。
 だれかに「倣って」掌をあわせたのは、福田にとって、今回が初めてではないだろう。そういう「こと」を何回か繰り返していて、それを「覚えている」ので、(倣うことは、習うにつながる)、「掌をあわせる」ことが「頼む」こと、「祈る」ことだと「わかる」。「肉体」がことばを通り越して、いま起きていることを「わかる」。
 ことばは、そのことにまだ追いついていない。「掌をあわせた」と過去形で書いている。ことばは、遅れてやってくるのである。そして、ことばは「こと」に永遠に追いつけないし、追い越すこともできない。それでも書かざるを得ない。
 またこのときの「わかる」は、「頼む」「祈る」という「こと」を通り越して、おばあさん(シノさん)を「わかる」につながる。ひとつ何かが「わかる」と、そのひとつのこと(ここでは「頼む」「祈る」)をとおして、全部につながり、全部が「わかる」のだ。

 さて。
 きのうの詩。「エートス」ということばを福田は、この詩のおばあさんの「いのり」のように、福田自身の「肉体」で「倣った」かどうか。私は「倣った」と理解していない。福田は「頭」で「理解した」だけだと思う。「肉体」で「倣った」ことばなら、「肉体」が動くはずである。
 「放たれた、毀たれた」「触れている」という動詞は「水」を主語としているが、主語が水であっても、そういう動詞で「肉体」で「倣った」なら、それは「肉体」へ跳ね返ってきて、「肉体」そのものを変化させる。福田は、その「肉体の変化」をことばで追いなおすという手間を省いて「概念」で「要約」した。
 そういうものが私は大嫌いだと、言いなおしておく。

 詩集の最後の「入り江から」も美しい。南の島の風景を「ジャングル」とたとえ、そこから「太古の昔」に突き進む。それは語り尽くされた方法だが、そういう語り尽くされたとわかっていることをもう一度語る(倣う)のは、私は「手抜き」とは思わない。

この土地の人々は誰もがニライカナイに死後を託しているのか
砂の洞窟に設(しつら)えられた祭壇に
ささやかに供えられた泡盛のワンカップ

 と書く時、福田は「土地の人」になってワンカップを供えている。それだけではなくワンカップになっている。「祈り」そのものになっている。ニラカナイとも一体になっている。だから安心して出かけることができる。

ここから出かける
朽ちかけた浮桟橋の根元にひっそりと繋がれた小舟に乗って
ここから--

 繰り返してしまうが、「小舟に乗る」とき福田は「小舟」そのものでもある。「乗っている」だけではなく「小舟」になって「土地の人」を乗せているし、また「小舟」になることで「ニラカナイ」にもなっている。
 何かが「わかる」とき、「私」は「私」ではなくなるのである。「詩になる」のだ。

あけやらぬ みずのゆめ
クリエーター情報なし
港の人



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目次

岡田ユアン『水天のうつろい』2 浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』6
石田瑞穂「Tha Long Way Home 」10 高見沢隆「あるリリシズム」16
時里二郎「母の骨を組む」22 福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」27
川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」33 小池昌代『野笑』37
小笠原鳥類「魚の歌」44 松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」47
河津聖恵「月下美人(一)」53 ト・ジョンファン『満ち潮の時間』58
大倉元『噛む男』65 秋山基夫『文学史の人々』70
中原秀雪『モダニズムの遠景』76 高橋順子「あら」81
粕谷栄市「無名」、池井昌樹「謎」86 深町秋乃「であい」92
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』97 徳弘康代『音をあたためる』107
荒川洋治「代表作」112  中村稔「三・一一を前に」117
新倉俊一「ウインターズ・テイル」122


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