詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

記者会見で「国会解散」?

2017-09-21 10:41:14 | 自民党憲法改正草案を読む
記者会見で「国会解散」?
            自民党憲法改正草案を読む/番外115(情報の読み方)


 読売新聞(2017年09月21日、西部版・14版)1面。

所信表明行わず解散/臨時国会 開会式も見送り

 という見出し。
 では、どうやって「解散」をするのか。国会議員に「解散」を伝えるのか。

 首相は25日に公明党の山口代表と会談し、(略)日程を確認、同日夕の記者会見で衆院解散の意向を表明する。

 さらに、こういう記事が見える。

 首相は衆院選で、「全世代型」社会保障制度の実現を争点に位置づける考えだ。2019年10月の消費税率10%への引き上げに合わせ、増収分の使い道を国の借金返済から子育て充実に変更することを訴える。
 25日の記者会見では、こうした方針を説明する。

 繰り返しになるが、問題点は2つある。
(1)どうやって、国会議員に「解散」を伝えるか。
   「記者会見」で表明すれば、それでいいのか。
   記者会見は「正式文書」として記録に残るのか。
(2)「全世代型」社会保障制度はどういうものか、国会で説明しなくていいのか。
   国民の代表である国会議員の質問に答えないのでは、内容が不明確である。
   国民の存在を無視している。民主主義を否定している。
   選挙運動(街頭演説)での説明は「正式文書」として記録されるのか。
 もっと、いろいろ問題点はあるだろうが、とりあえず2点を問題にしたい。

 「記者会見」は、国会解散を有効にする「手段」として認められているのか。憲法の、どの条項を適用すれば、記者会見での「解散」が有効になるのか。
 憲法の条項で「解散」が出てくるの部分はいくつかあるが、重要なのは、

第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。

第六十九条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

 安倍は何を根拠に国会を解散するのか。どうやって解散を実現するのか。
 「開会式」がないということは、天皇が国会に来ないということだろう。天皇は、どうやって「衆議院を解散する」という「国事行為」を行うのか。天皇の「国事行為」を封印するというのは、「象徴」としての仕事をさせないということではないのか。
 天皇を強制生前退位させ、天皇に沈黙を強制した安倍は、天皇の存在を完全に無視している。安倍独裁を推進するために、天皇の活動を制限している。天皇を「隠蔽」し、安倍独裁を進めている。
 天皇が「解散する」と言わなくても、国会は解散できるのか。何のために憲法は「衆議院を解散すること」と明文化しているのか。

 森友学園、加計学園問題で焦点になったのは「公式文書」であった。「文書」の有無であった。
 安倍(政府)は、すべて「文書はない」、担当者の「記憶にない」という発言で質問を封じた。
 記者会見の「ことば」は、誰が聞き取り、書き取るのか。その「ことば」は「議事録」のように、「正式文書」として位置づけられるのか。
 私たちはすでに、安倍が「PTTに反対」というポスターに顔を出しておきながら「PTT反対と言ったことは一度もない」という嘘を聞いている。今後、「全世代型」社会保障制度を充実するとい言ったことは一度もないと、きっと言うに違いない。

 安倍独裁の特徴は、昨年の参院選で明らかになったが「沈黙作戦」である。何も語らない。何も説明しない。質問を受け付けない。
 安倍は「私の言いたいことは読売新聞に書いてある」と、今度も言うかもしれない。国会議員に対しては何も答えない。けれど読売新聞記者には答える、ということを繰り返すかもしれない。これでは、新聞は「安倍の宣伝広報紙」である。
 「アベノミクスを加速する」というのも「選挙公約」にするらしいが、「アベノミクス」とは「沈黙強要作戦/独裁推進作戦」のことである。
 安倍は、「公約」を語る一方、野党に対して「対案を出せ」と迫るだろう。
 「反対するだけでは何も実行(実現)できない」というのは、もっともらしく聞こえるが、こには「大きな嘘」がある。
 「安倍政権は許せない。安倍政権に反対」と訴えることは、安倍政権を倒すことができる。戦争へと暴走する安倍の野望を封じることができる。
 いま、唯一しなければならないことがあるとすれば、安倍の暴走を止めることである。「見せ掛けの美しい公約」などいらない。「安倍は、森友学園、加計学園問題を隠している」「安倍昭恵が何をしたかを隠している」「安倍の友人のために国家予算がつかわれている」とだけ訴えればいい。「安倍は辞めろ、安倍は帰れ」と叫べばいい。
 「安倍を辞めさせる」を「公約」にして野党は団結すべきである。
 国会を開催させ、天皇にきちんと国事行為をさせ、安倍に所信表明をさせ、さらに代表質問が行われる。解散があるにしても、それは、そのあとでなければならない。

 新聞は、すでに安倍の戦略を批判することをやめて、安倍の「広報」になってしまっている。


 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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徐廷春(Soe Joengchoon)「貯水池でおきたこと」(李國寛訳)ほか

2017-09-21 00:01:43 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
徐廷春(Soe Joengchoon)「貯水池でおきたこと」(李國寛訳)ほか(2017韓中日詩選集、2017年09月発行)

 徐廷春(Soe Joengchoon)「貯水池でおきたこと」(李國寛訳)は短いスケッチ。

突然、大きな魚一匹が貯水池全体を一度持ち上げてから打ち下ろす時は、本当に息苦しい潜行の末、一度すべての力を水面の上に吐き出して見せるのだが、それは一瞬に大きく決意して行う決行のようなものである。

 ことばが「ごつごつ」している。「決意して行う決行」という「馬から落ちて落馬して」みたいな部分など、ふつうなら「いやだなあ」と思うのだが、うーん、不思議に強い響きだなあと思う。
 「これは何だろう」「ほんとうにこういう訳でいいのかなあ」という疑問(たとえば、慎達子「熱愛」の「最高だ」ということばに触れたときのような感じ)は浮かんでこない。ほんとうは違うのかもしれないけれど、あえて、そのねじれのようなところへ踏み込んでいく力を感じてしまう。
 なぜだろう。
 「一」ということばが何度も出てくる。「一匹」「一度」「一度」「一瞬」。「一度」は二度も繰り返されている。「一」が印象に残る。それは単に文字(ことば)の問題というよりも、「情景」そのものとなって迫ってくる。
 いくつかのことが書かれている。いくつかの「名詞」があり、いくつかの「動詞」がある。しかし、それは切り離せない。「ひとつ」になっている。そのときの「一」になって迫ってくる。
 池で魚が飛び跳ねる。エラ呼吸や、水面に口を近づけてぱくぱくと動かす呼吸では間に合わず、空気そのもののなかに飛び出して、全身で空気を吸う。そのときの様子を描いているのだが、「貯水池全体を」「持ち上げてから打ち下ろす」という動きが強い。魚が飛び跳ねるというよりも、水中と空中が瞬間的に入れ替わるような感じ。池の水全部が持ち上がって、ひっくりかえって、元にもどる。
 その「貯水池全体を」「持ち上げてから打ち下ろす」のつなぎ目に「一度」がある。「一」のなかで、水中と空中が入れ替わる。「一」だから、入れ替わるといっても、ふたつが入れ替わるのではなく「一」がそのまま入れ替わる。
 うーん、うまく言えない。
 その「一」の入れ替わりは、「すべての力」である。
 「苦しい」ということばがあるが、「苦しい」ということが、そのまま「快楽(愉悦)」であるような感じ。「苦しさ」がなければ、ここに書かれている「愉悦」もない。切り離せないものが「一」になっている。
 「一」になるために、魚と水と空気が動く。動くのは魚だけなのかもしれないが、魚にあわせて世界が入れ替わり、入れ替わることで「一」であること、その結びつきを強くするといえばいいのか。

 「水平線を引きながら」も短い詩である。

そうだ、空は常に青い廃墟で

私は空の下で下線を引きながら暮らした

まるで、誰かの貧しさだけは

空と平等であったのを祈念するかのように

 「誰かの貧しさ」と書かれているが、作者以外の「誰か」を私は想像することができない。「私の貧しさ」と読み違えてしまう。そのとき、そこには複数の人間ではなく「ひとり」の人間が現れる。
 「貧しさ」は「豊か」の反対のもの。「豊か」は「多数(多い)」に対して「貧しい」は「少ない」。その「少ない」の究極の「少なさ」、全体的な「少なさ」が「一」である。すべてのものをなくしても、人間は生きている限り、自分の「肉体(いのち)」をもっている。その「絶対的最小数」というものが「一」である。そういう存在が、このことばの運動から浮かび上がってくる。
 ここでも「一」が主題なのだ。書かれていないが、「一」が徐のキーワードである。
 「私は空の下で下線を引きながら暮らした」は「一本の」下線を引きながらだろう。それは、言い換えると「地平線」であり、空と大地の境界線である。それはいつでも「一本」である。世界のどこにでも地平線はあるが、それはいつでも「一本」である。「巨大な」というよりも、「永遠の」一本。
 それを実感している。
 そして、「そうだ」と書き出しで、それを肯定している。
 ここが、とても強い。
 「まるで」は「ように」ということばにむかって世界を「ひとつ」にする。「比喩」はふたつの存在があって成り立つものだが、「比喩」が生まれた瞬間、「ふたつ」は「ひとつ」になる。「現実」と「抽象」が硬く結びつき、ことばでしか表現できない「世界」が出現する。
 「空の下で下線だけを」の「下」の重複は、「決意して行う決行」とは少し違うが、何といえばいいのか、やはり、こなれていない「ごつごつ」した感じがあるのだが、その「ごつごつ」しか感じが、また、とてもいい。

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