詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

二重国籍よりも二枚舌が問題

2017-07-23 15:18:30 | 自民党憲法改正草案を読む
二重国籍よりも二枚舌が問題
               自民党憲法改正草案を読む/番外108 (情報の読み方)
 蓮舫の「舫」の字が私のワープロにはなくて、なかなか書くことができなかったのだが。
 蓮舫の「二重国籍」が問題になって、戸籍の公開にまで事態が進んだよう。私は二重国籍のどこに問題があるのか理解できなくて、関心も薄いまま。日本の国籍があれば、選挙に出てもいいだろうし、国会議員になるのも問題ないだろう。憲法を守るのであれば、蓮舫が二重国籍であろうと関係ない。
 「台湾籍」を持っていると、有事の際に日本を裏切り、台湾にそった政策をとる可能性がある、というけれど。日本は独裁国家ではない。蓮舫が首相になったとしても、蓮舫ひとりの判断で日本の行動が決定するわけではない。国会の決議があって、その決議に従って首相は行動するだけである。
 二重国籍の蓮舫が首相になったら、日本を裏切る可能性がある、という論理の立て方は「首相独裁」を認める考えである。首相が判断したことに対して、内閣も、議会も反対しない、反対できないということを前提としている。前提がおかしい。
 だいたい日本国籍を持っていれば日本を正しく導き、二重国籍を持っていれば日本の進路を間違った方向に向けるという「仮定」がおかしくないか。
 日本を第二次大戦に向かわせたのは日本国籍を持った政治家である。

 こんなことも考えてみよう。
 安倍が二重国籍かどうか私は知らない。たぶん日本の国籍だけを持っているのだと思う。その安倍がやっていることは「友人」優遇の政策である。国民のためといいながら「友人」のための政治しかしない。「TPP反対」と言っておきながら「TPP反対と言ったことは一度もない」という。「ていねいに説明する」といいながら、何一つ「ていねいに説明したことはない」。
 こういうことを「二枚舌」という。
 政治は「ことば」でおこなうもの。「ことば」に嘘があってはいけない。「ことば」とそのことばを実行に移すこと(実践)。その二点の関係から政治家の「価値」を判断すべきだろう。

 すでに日本には多くの外国人が住み、日本人と結婚して、子どもも産まれている。その人たちがどう生きるかは、その人の自由。どこの国籍を選択しようが、それは他人が口出しすべき問題ではない。
 二重国籍は、ある意味で、日本の「多様性」を推し進めるキーワードである。さまざまな二重国籍のひとが、やっぱり生きていくなら日本がいいと思える社会にしてゆくこと、それが日本の方向性ではないのか。
 いろんな職場で外国人の手を借りなければ仕事が進まなくなっている。こんな時代に日本以外の国籍、その国籍をもっている人間を排除するというのは、動きとして逆方向だろう。

 あすから始まる予算委員会の「国会閉会審査」。安倍が、どんな「二枚舌」をつかうのか、稲田がどんな「二枚舌」をつかうのか。そのことに注目したい。

 

#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位 #稲田防衛大臣
 


詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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河野聡子『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』

2017-07-23 09:15:38 | 詩集
河野聡子『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』(いぬのせなか座叢書2)(いぬのせなか座、2017年07月17日発行)

 河野聡子『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』は装丁が凝っている。活字の組み方が縦組み、横組みと変化する。活字の大きさも変化する。ページに幾何学的な模様が入っている。紙面が黒く、活字が白いページもある。装丁がことばを「演出」している。一瞬、驚き、新鮮な感じがするが。
 私は、こういう詩集にはなじめない。
 私は黙読する。ことばを目で読む。そのとき、他の視覚要素(レイアウト、侵入してくるデザイン)よって、ことばの印象がかわる、あるいはかえられることに、私の「肉体」はついていけない。私の目が悪いということもあるが、書かれていることばと、デザインの関係がつかみきれない。
 ことばと他のジャンルとの総合芸術には、芝居や映画がある。それは役者や演出、舞台装置、そして観客の質、劇場の大きさによって、全く違うものになる。視覚だけではなく、聴覚、あるいは触覚(空気の変化を感じる)も影響してくる。「場」がひとつの作品になる。その「場」へ行くことが、「体験」として「肉体」に残る。
 詩集で、そういうことを試みているのかもしれないが、よくわからない。「本」というのは、「場」にはなり得ないと私は思う。理由は簡単である。「本」がおかれる「場」、「本」を読む「場」がひとりひとり違い、その「場」はけっして共有されない。「共有」されるのはあくまで「本」である。他のひとはどうか知らないが、私は読むとき、勝手気ままに読む。ページをあちこちめくるし、休憩もする。コーヒーを飲むときもあれば、途中で外出したりもする。「本」はそういう個人の行動を封印し、ある「場」を、ある「時間」として「体験させる」装置にはなり得ない。芝居や映画とは違う。
 最初は目新しい風景に緊張するが、いったん、これは「装丁によって演出された詩集だ」とわかると、気持ちが一気にだらけてしまう。「装丁」が「解釈」を押しつけてくることを私は好まない。また、「装丁」がどこまでことばに「圧力」をかけているのか判断するには、私は、その「基準」のようなものをまったく持っていない。詩集になる前の河野の詩を読んでいない。比較のしようがない。

 だから、そういうことは無視して感想を書く。と、言いたいのだが、もうすでに装丁の影響を受けているから、どこまで正直な感想になるかわからない。ともかく、いつもと同じように、私なりに書かれていることばを動かしてみる。
 「クマの森」が、私には親しみやすかった。

ぼくが三日生きるあいだにきみは八十九年としをとる
八十九年のあいだに
ヒトはクマになりクマはヒトになる
秋の河原で鮭を串に刺し
たき火で炙るヒトはクマだ
どんぐりの木を倒すヒトはクマ
ハチの巣を探すヒトはクマ

 なるほど、ヒトとクマは交錯する。この瞬間に詩があると思う。あるものが概念を引き剥がされ、むき出しの存在になると、別の存在と「同じ」になってしまう。こういうことを体験するのが詩であると、私は感じている。
 野村喜和夫について書いたとき、定冠詞、不定冠詞のことを書いたが、定冠詞付きの名詞が定冠詞を一つずつ捨てて不定冠詞としての存在になる。それは存在が「むき出し」になるということであり、「むき出し」になった存在が詩ということになる。
 「私とは一個の他者である」とランボーは言ったが、ここでは「ぼく(私)とは一個のクマである」ということ。「私」が「他者」ではないのと同じように、「私」はけっして「クマ」ではない。けれども、「私とは一個のクマである」。
 「家」の書き出しもいい。

あの角を曲がり
この家までまっすぐのびる
おまえが道を走ってくるときの
ゆるやかな喜びの感覚を
何と名づけるべきだろう
かくれんぼが終わると三輪車が疾走し
チョークの線路をオモチャの汽車が駆けぬける

 書き出しの「あの角」「この家」の「あの」「この」は指示詞であるが、定冠詞の働きをしている。「おまえ(子ども?)」の意識している角であり家であると同時に、「私(詩人/書き手)」の意識している角、家。そこでは「場」が共有されている。
 そこをおまえが走ってくる。いつものことだが、いつもと違う。「ゆるやかな喜びの感覚を/何と名づけるべきだろう」と河野は書いている。「わからない」ものが瞬間的にあらわれる。河野の「肉体」をつきやぶってあらわれる。意識にとらえられていない何か。定冠詞のついていない何かが噴出する。
 そのあとの「三輪車」「チョークの線路」「オモチャの汽車」は、「おまえの三輪車」「おまえが書いたチョークの線路」「おまえのオモチャの汽車」なのだが、定冠詞の働きをする「おまえの」が取り払われて、全く新しい不定冠詞の存在となって、むき出しで迫ってくる。
 こういう光景は誰もが覚えているかもしれない。子どもとして覚えているか、大人として覚えているかは別にして、誰もがどこかで「体験」したことがあると思う。その「肉体」の記憶を呼び覚ます不定冠詞の「三輪車」「チョークの線路」「オモチャの汽車」。不定冠詞つきの存在だからこそ、読者はそこに自分自身の「体験」を投げ込み、それを自分の「定冠詞付きの(私の)」覚えていることとして体験しなおすことができる。
 こういう河野のことばの美しさを、凝った装丁で「定冠詞まみれ」にしてしまうのは、私には納得ができない。装丁者の観念(概念)が河野の本質を隠してしまわないか、と私は疑問に思う。

時計一族
河野 聡子
思潮社
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