詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三角みづ紀「小豆島」ほか

2017-04-09 14:47:49 | 詩(雑誌・同人誌)
三角みづ紀「小豆島」ほか(「別冊 詩の発見」2017年03月22日発行)

 三角みづ紀「小豆島」には「男性」がまじっていない。こう書くと「差別的」に聞こえるかもしれないけれど、私は「男性」がまじっている詩が嫌いだ。それが男性が書いたものであるにしろ。「男性」を「頭」と言い換えるといいのかもしれない。
 「小豆島」の最初の二連。

まだ夜の残る朝
寒気が肌へしみこむ
おおきく手足を伸ばした

青いままのオリーブの実に触れて
ここがどこだかわかっているのに
ここがどこだか知らないふりをして
充満している清潔さは
わたしだけのものじゃない

 三角の詩にも、きのう読んだ和田の作品と同じように「漢字熟語」がある。「寒気」「充満」「清潔」。でも、気にならない。日常語になっている。口語になっているからだと思う。
 さらに、

充満している清潔さは
わたしだけのものじゃない

 この、不思議な「自信」のようなものがいい。
 始まったばかりの朝の清潔さ。それが島中にあふれている。ひとりじめしたくてもできないくらいにあふれて、充満している。それを「わたしだけのものじゃない」というとき、逆に、三角自身がつかみとった確かさ、確かな清潔さが三角の「肉体」からあふれてくるような感じ。三角が確実に自分のものにした「清潔さ」があるから、他の部分が見える。三角がつかみとった「清潔さ」以外の部分、あふれ返っている清潔さを「他人」が持っていってもかまわないという自信のようなものが、ことばを強くしている。
 こういう「わがまま」って、若い女性の特権だなあ、と思う。うらやましい。こんなふうに言ってみたいと思う。思った瞬間、私はたぶん「若い女性」になっている。こう書いてしまうと「変態」と言われそうだけれど、私くらいの年齢になると「変態」と言われる方がうれしい。まだ「変態」になれるだけの力があったのか、と思うから。
 あ、脱線してしまったが。
 「わたしのものじゃない」ということばの中にある「自信」は次のように展開していく。

青いままのオリーブの実に触れて
ここがどこだか知らないふりをして
信じて この島は
いまこの瞬間
わたしのためにあった

 「わたしのものじゃない」と言いながら、思わず「わたしのためにあった」と言いなおしてしまう。これが、強い。途中にある「信じて」は読み方がむずかしいが、私は「わたしのためにあった」と「信じる」と読んだ。「信じる」は「自信」へとつながっていく。
 ここには「頭」に頼って動かしていることばがない。三角のことばの「出典」は「教養本」ではない。こういうことを指して、私は「男性」が含まれていないというのだけれど。
 「粟島」の、

今日もずいぶん歩いた
港から西浜
いりくんだ道
あらゆる軒先に名前があり
それらは案外いりくんでいない

道がいりくんでいても
わたしたちはいりくんでいなから
わかっているから
素直になれなくて

 の「いりくんでいる」「いりくんでいない」の向き合い方、「わかっている」というこころの動き、それが「素直」に結びついていくことばの動き方も気持ちがいい。「素直になれなくて」も、それが「素直」ということ。それが「見える」ということが、「素直」なのだ。
 ことばの動きのなかに、いわば「矛盾」みたいなものがあって、それが絡み合って「ことばの肉体」を強くしている。「頭」で補強(あるいは整理)しようとすると「矛盾」は「破綻」へとつながっていくのだが、「ねじれ」を「肉体」のなかへとりこんでしまうしなやかさがある。若さがある。
 この作品の最終連。

階下からゆみちゃんが
お風呂ができましたと教えてくれ
朝食のあとはえっちゃんが
犬を連れて通りかかる

 「素直」は、こんな形で実る。いいなあ。
 「志々島」の最終連も美しい。

いせやの船に乗る
島は次第に遠ざかるが
遠ざかるほど
大きくなった

 「物理(現象としての風景)」と「心理(心象としての風景)」を対比させているのだが、私が説明のために書いたような「頭の補強」がない。そういうものをふっとばして、「肉眼」で世界をとらえている。
 私は、こういうことばが好きだ。

よいひかり
三角 みづ紀
ナナロク社
コメント
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