詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「へいすけ」、颯木あやこ「深海の奏楽者」

2017-03-20 11:37:01 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「へいすけ」、颯木あやこ「深海の奏楽者」(「狼」30、2017年03月発行)

 坂多瑩子「へいすけ」を読みながら、「へいすけ」って誰?と思う。男? それとも猫? あるいは猫は「あたし」?

へいすけは
真っ白なハンカチで手をふきながら歩いている
へいすけは看板を見上げて腕時計を見た
それから
あたしの方に向かって歩いてきた

 これは男の描写に見える。小説なら、そうなる。
 これが、こうつづく。

へいすけとあたしが知り合ったのはそれからだ
へいすけは三人兄弟の三男で
子ネコをふくろに入れていて
会うたびに連れてきた

 あ、まだ知り合いじゃなかった? 男を見ていた。それから男と知り合いになった。まあ、あることだね。男の家族構成を知り、男の性格もわかってくる。子ネコを袋に入れて連れてくるというのは変わった男である。

子ネコはきれいなメス猫になり
へいすけのジャンパーのなかにいた
くるくる巻いたマフラーのなかにいた

 猫の描写なのだろうが。「あたし」の描写にも見える。子ネコのかわりに「きれいなメス猫」になってへいすけにべったりくっついている。あるいは「あたし」はあの猫のように男の体にべったりと身を寄せていたいと思っているのかもしれない。猫は「あたし」の願望。願望は「あたし」そのもの。

あたしはあたしで
このままというわけにはいかないぜ
へいすけの喜びそうなことならなんでもやった
ザラザラした舌でなめてあげた
爪をかくして揉み揉みしてあげた
ネズミをプレゼントしたことだってある

 「あたし」は最初から猫で人間(坂多)ではなかった。捨て猫の「あたし」を拾ってくれた。それから、いつでも、どこへでも連れて行ってくれた、ということか。あるいは、そういう猫好きの男を坂多は「描写」しているのかもしれない。

へいすけは遠い町の学校に行ってしまった

ヘイスケ
ゲンキデスカ
アタシハマフラーニクルマッテマッテイマス

 これは猫の気持ち?
 あるいは猫に託した坂多の気持ち?
 強引に「ストーリー(意味)」を結びつければ、まあ、なんとでも結びつけられるなあ。「意味」というのは、結局、あとだしじゃんけんみたいなもの。「結果(?)」など、どうでもなる。
 そんな「ストーリー」はわきにおいておいて、「へいすけ」って誰なのさ。男ではあるようだけれど、坂多の恋人? それとも息子? 猫は本物の捨て猫? それとも坂多の「比喩」? わからないぞ。
 で、わからないぞ、と不平を言いながら。
 「わからない」ということが「わかっている」。そのとき「わかっている」というのは不思議なもので、猫は猫かなあ、あるいは坂多かなあ、猫が「あたし」と言っているのかなあ、それとも坂多が猫になりたいなあと思っているのかなあ、私の「解釈」が揺れているということが「わかっている」。坂多の書いていることは「わからない」が、私自身が考えていること、感じていることが「わかる」。
 この変な擦れ違い、「誤読」の始まりが、きっと詩。詩のすべて。
 これを強引に、論理的に、意味にして、坂多の書いていることはこれだ、とテストの解答のようにしてしまうと、おもしろくない。
 ことば(詩、文学)は、作者の考えていること(思想)を正しく理解するためにあるのではない。自分が(読者が)、どう読むか、読みながら自分自身のことばをどう動かすか、そのとき何を感じるか、考えられるかということを知るためにある。
 坂多は、「解答」が出せないようなぐちゃぐちゃした問題(おばさん問題と呼ぶことにしよう)を出して読者を困らせることが得意だ。こういう詩には、「わかった」か「わからない」か「わからないぞ」と言って筆者に仕返ししよう。私の「解答(感想/批評?)、わかるかなあ」と逆に言ってしまおう。



 颯木あやこ「深海の奏楽者」も、同じような感じで私は読む。「ひかりを拒んだ少年の/しろい手を握りしめ/深海魚の書斎へ」入っていくと……。

書棚には
『音楽のたのしみ』という書物のとなりに
『音楽のよろこび』という一冊もあって
深海魚には
目のないものもあるけれど
耳はあるのだ
あるいは 耳も持たず
音楽だけ 心に巡らせている?

 「深海魚」には目がない、という「常識」から連想がはじまっている。それは「ひかりを拒んだ少年(目の見えない少年)」の「比喩」かもしれない。深海魚には目はないが、少年はどうか。「耳」がある。では、深海魚にも耳はあるか。そんなことを考えていると、「音楽」をバネにしてことばが「心」へと動いていく。耳で聞くだけでは不十分。こころで聞いてこそ、音楽は美しくなる。いいかえると、音楽を聴いてこころが美しくなる。「心」で聞く音楽が、そのとき突然わき上がる。
 さて。
 このとき、颯木は颯木なのか、あるいは深海魚になっているのか。また、そのとき「少年」はどうしているのか。颯木は、こころで音楽を聴く少年そのものになっている。書かれていることのすべてが颯木の「肉体」のなかに統合されている。この統合を整理し、ストーリー(意味)にすることは、できないことではない。けれど、そういうものを整理しても意味はない。整理し始め、ストーリー(意味)にしてしまうと、あ、いま少年は深海魚になっている、いや颯木は少年になっている、深海魚になっていると「わかった」瞬間の喜びが消えてしまう。
 「正解」は「わからない」が、何かに近づいたということが「わかる」。私(読者)自身のなかで、ことばがそれまでのことばとは違う感じで動き始めているということが「わかる」。この「驚き」を、そのまま「詩」である、と思うことにしよう。




ジャム 煮えよ
クリエーター情報なし
港の人
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