詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永方佑樹『√3 』

2016-07-13 12:51:29 | 詩集
永方佑樹『√3 』(思潮社、2016年06月20日発行)

 永方佑樹『√3 』の「√3」は「ルート3」。「√」のなかに「3」を入れたまま表記できないので、こういう表記になった。
 日本語の表記文字は「ひらがな」「漢字」「カタカナ」と三つある。その組み合わせ方に配慮して書かれた詩、ということになっている。サイン、コサイン、タンジェント、その総合というような「数式」で組み合わせ方が書かれているが、そんなことを言われても、わからない。「√3」というのは直角三角形(直角以外のふたつの角が30度、60度)の長い方の直線(30度と90度を結ぶ線)だったかなあ、ピタゴラスの定理だったかなあ、と記憶を振り返るが、それ以上はわからない。わからないことは、わかったふりをしないで感想を書く。つまり、永方の意図は無視して、私は私の読みたいままに読む。
 「ひらがな」の詩が、古典的(?)でおもしろい。ほんとうのタイトル(?)ではなく、詩の末尾のタイトルで引用すると、26ページの「はるけぶり」の書き出し。(ところどころ「漢字」のルビがあるのだが、表記できないので省略。詩集で確認してください。)

ひと も こと もよいどれ、ゆめ もろともまどろむあけがた、
くすんだかぜ鳴りはあわく ぬくもり、うすまる

 音がゆらぐ。ゆらぐことで、次の音を引き出している。「意味」はよくわからないというか、「意味」を考える気持ちにはなれない。あ、この音のつらなりかたは気持ちがいいぞと「肉体」が反応する。
 強引に「理屈」をつけると一行目は「も」の音がとぎれとぎれにでてくる。「もよいどれ」は「も よいどれ」の方が読みやすいのかもしれないが、「もよいどれ」とつづけることで逆に「も」があるんだぞ、と教えてくれる。「もよい」じゃないんだぞ、と「肉体」がひっかきまわされる。で、ひっかきまわされた「肉体」が「ま行」を探し出す。
 「ま行」がみつかると、「ろ」も見つかる。
 つづいて「た行」も見つかる。
 この「見つかる音」の「見つかり方/見つけ方」というのはひとによって違うだろうけれど、私の場合は「も」「ま」「ろ」「と」という感じ。
 で、このあと「ろ」と「と」、「ら行」と「た行」が、なんとも言えず気持ちよくなる。
 私は富山の生まれで、小さいときは「富山弁」。
 ひとによって違うのだが、友人に「た行」と「ら行」が似かよったひとがいた。「じてんしゃ」を「じりんしゃ」と言う。彼は「え」と「い」も似かよっている。(「いろえんぴつ」を「えろいんぴつ」と言う田中角栄みたいな感じ)。「ら行」を「R」ではなく「L」で発音するからだ。親類に「新潟県人」がいるのかなあ。
 私は巻き舌の「R行派」なので、「L行派」の音が気になったのかもしれない。
 で、その「た行」「ら行」がつづくときなのだが、「よいどれ」「まどろむ」の場合、私はどうしても「R」の音になる。「じりんしゃ」の友人は、どうかなあ、とちょっと思ったのである。特に「まどろむ」は、私は「L」で発音するのは、かなり意識しないとできない。「R」だと気持ちがいい。
 そういう「どうでもいいこと」が「肉体」のなかで、動き回る。「音読派」ではなく「黙読派」なので実際には口を動かさないのだが、無意識に舌やのどが動いていて、ここの部分、気持ちがいいと感じる。
 母音の動きも、内にこもった感じが、おもしろいなあ。「あけがた」という「あ」の響きが強い開放的な音もあるけれど、一行目は「お」が手をつなぎあっている。二行目は「う」の音がつながっている。「音」が「意味」よりも優先して、かってに(?)動いていく感じが、とても気持ちがいい。
 この「音」はおぼえているぞ。読んだことがある、聞いたことがあるぞ、という安心感といえばいいのだろうか。

 漢字が主体の「南無妙法蓮」の32-33ページ。

                        上野公園の目盛は濛々、
汗と糞尿の匂いが忽ち、下水の臭気と立籠め駆込み、蓮見茶屋で雨止みを待つ。

 ここで、私は「漢字」ではなく、つまり「表象文字」ではなく「音」に反応してしまう。「たちまち」「たちこめ」「かけこみ」、「あめやみ」「まつ」。一種の「しりとり」がある。「韻」がある、と言えばいいのかな?
 眼が悪くて引用を省略してしまうのだが「胡座を斜めに崩して伸ばす脹脛(ふくらはぎ)の丸みは汗を絡み。」の「あぐら」「くずす」「のばす」「ふくらはぎ」の濁音のつながり、「まるみ」「からみ」の脚韻の呼応も、「肉体」を刺戟してくる。
 この「音」を聞いたことがあるぞ、と「肉体」が言うのである。
 もちろんどのことばも「日本語」だから知っている。聞いている。しかし、それでも「聞いたことがあるぞ」と感じるのは、言い直すと、あ、これを「声」にしてみたいという欲望が私の「肉体」のなかで動いているということである。
 知っている曲ではなくても、はじめて聞く曲でも、聞いてすぐにハミングで追いかけたくなるような音楽がある。それに似た感じと言えばいいだろうか。
 永方は「音」でことばを書くひとなんだ、と思った。

 カタカナ。あ、私はカタカナ難読症。読めないのだが、「トウキョウ・デコラティブ」の書き出し56ページ。

ガンマ、ゼータ、デルタ の
ロゴスとロジックでデフォルトされた
ポストモダンコンクリートを
キャラメリゼされたコハクのプリズムが
スラッシュのスペクトルで照らしている

 「ロゴス」「ロジック」、「キャラメリゼ」「プリズム」、「スラッシュ」「スペクトク」という「音」の響きあいとは別に、「ひらがな」に気づいて、私は、はっとする。いや、椅子から転び落ちそうになるくらいに驚いた。
 「ひらがな」はまず「助詞」の「の」としてあらわれる。あ、そうか「助詞」は「カタカナ」にならないのか。「漢字」にならないのか。「助詞」は「日本語」特有のことばだと思うが(いや、助詞をもっている外国語はあるだろうけれど、私は知らないというだけなのだろうけれど)、その部分が「ひらがな」なのは、そうすると「ひらがな」こそが「日本語」の音とリズムをつくる基本なのかな、とふと感じたのだ。いや、「発見した」と思って、びっくりした。自分に驚いたのか、永方に驚いたのか、詩に驚いたのか、よくわからないが。
 さらに「照らしている」この漢字まじりのことばの「ひらがな」。このひらがなというのは「活用」している部分だねえ。語幹は漢字、でも活用は「ひらがな」。ここにもきっと「日本語」の特有の何かがあるぞ。
 「助詞」で文体に「粘着力」をつけ、「活用」でそれをひきずって動く。「ひらがな」の部分で日本語は日本語らしくなる。「ひらがな」は「音」そのもの。「表音文字」。
 この感想の最初に、

「ひらがな」の詩が、古典的(?)でおもしろい。

 と書いたのだが、これは「ひらがな」の動きが「日本語」の「伝統」そのものをあらわしている。日本の伝統につながっている、と感じたということかもしれない。その日本語の伝統が、漢字を主体にした詩、カタカナを主体にした詩にもあらわれている。
 へええっと、思ったのである。
 最後の略歴をみると永方パリに留学していたよう。フランス語に触れることで日本語の「音」そのものに詩を発見したということなのかなあ。「音」が楽しい詩集だ。


√3
永方 佑樹
株式会社思潮社
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自民党憲法改正草案を読む(番外/1)

2016-07-13 10:54:19 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む(番外/1)

 参院選挙が与党が大勝して終わった。その後、急に「改憲論議」がわき上がった。選挙中は「改憲」はほとんど語られなかったのに。読売新聞7月13日(水曜日)西部版・14版の一面には「改憲論議に期待70%/内閣支持 上昇53%」という世論調査が載っている。選挙前は、どうだったのかな? 選挙前の世論調査で「改憲論議は必要か、否か」という設問があったのかどうか、記憶にないが、もしなかったのだとしたら、今回の質問は唐突なものではないだろうか。多くの読者は「改憲」について考えつづけてきて、そのうえで「改憲論議に期待」と言っているのだろうか、という疑問がわいた。そのとき、また、「改憲」をメディアはどんなふうに伝えていくのか、ということも気になった。どんなふうに「改憲」は「世の中」で語られていくのか、それが気になった。そういうことを「番外」という形で、少し追ってみることにする。

 読売新聞での「憲法/改憲」についての質問はふたつあった。
 「憲法改正を国民に提案するには、衆議院と参議院で、それぞれ3分の2以上の賛成が必要です。参議院選挙の結果、憲法改正に前向きな勢力が、参議院でも3分の2を超えたことを、よかったと思いますか、よくなかったと思いますか。」
 よかった48% よくなかった41% 答えない11%
 「あなたは、今後、国会で憲法改正に向けた議論が活発に行われることを、期待しますか、期待しませんか。」
 期待する 70% 期待しない25% 答えない5%

 これを読みながら、私が感じたいちばんの疑問は、答えたひとたちが「自民党憲法改正草案」を読んだことがあるのかどうか、である。「憲法」は、私の場合、中学校で習った記憶がある。いまも同じような教育がつづいているなら、中学校で最初に読むことになると思う。だから、国民は現行の憲法は読んでいると思うが、「改正草案」はどうか。自民党は2012年に「改正草案」を発表している。ネットなどで読むことはできるが、何人が読んでいるか、疑問に思う。私は政治的意識が低いので、やっとこの春になって読んだ。(読んだときの感想、考えたことは、このブログで書いてきた。)
 私を「基準」にしてもしようがないのかもしれないが、私はどうしても「私を基準にしてしまう」わがままな人間、自己中心的な人間なので、そこから「疑問」も生まれる。どうして読売新聞の世論調査は、

 「あなたは、自民党の憲法改正草案を読んだことがありますか、ありませんか。」

 という質問をしなかったのだろう。もし、最初にそう質問していたら、読者はどう答えただろうか。
 さらに「憲法改正論議は自民党の憲法改正草案(2012年発表)を基本に進むことが予想されますが、改正草案で疑問に感じた点はありましたか、ありませんでしたか。」と質問していたら、どうなるだろう。
 「国会で憲法改正に向けた議論が活発に行われることを、期待しますか、期待しませんか。」では、質問があいまいすぎると思う。
 「議論が活発化する」ということについて言えば、いくつかのことが考えられる。
 (1)自民党の改正草案は時代が求めている憲法のあり方を示しているので賛成だ。賛成の方向へ議論を集約する。
 (2)自民党の改正草案は問題が多すぎるので、その問題点を議論を通じて明らかにし、反対の方向へ向けて議論を集約する。
 (3)どういう改正の仕方がいいのかは、さまざまな議論を闘わせないと明らかにならない。まず議論は充分にすべきである。
 いずれの場合も「議論を活発に行う」ということは重要であり、「議論の活発化」自体を否定することは、なかなかしにくいのである。「議論の活発化」を否定すると、民主主義ではなくなる。
 だから、突然、「議論が活発に行われることを、期待しますか、期待しませんか。」と問われて、「期待しない」と答えるのは難しい。どうしても「期待します」の方が自然に多くなると思う。
 世論調査では長々しい質問は難しいので、どうしても「簡単に答えられる質問」になってしまうのだと思うが、せめて、「自民党の憲法改正草案を読みましたか」は問いかけはしてほしかった。



 少し「話題」はずれるが。
 ANNNEWS(開票速報)の一部が「木村草太氏、稲田政調会長追い詰めた」というタイトルでユーチューブにアップされていた。
 そのなかで、稲田は「国民の理解を得られる部分から憲法を改正したい」というようなことを言っている。
 「国民の理解を得られる部分」って、どこ?
 「改正」の項目がやっぱり一番の突破口になると思う。「改正」には「政策(?)」そのものは含まれていない。「手続き」の問題である。「手続き」というのは右翼とか、左翼とか「色付け」できないから、なんとなく「それでもいいんじゃない?」と思わせるところがある。それがいちばん問題と私は思っているが。
 それは別にして、憲法学者の木村は「自民党の改正草案には国民の義務が多すぎる。国民への義務条項を削除しないと、改憲論議はできないのではないか」と稲田に問いかけている。これは「憲法は権力を縛るものであって、国民を拘束するためのものではない」という「論点/基本」を閉めそうとしての質問なのだと思うが、問い方が「専門家」すぎて、これではわかりにくいだろう。
 この質問に、稲田はまっていましたとばかりに、「国民が、国民の基本的人権を侵害することもある。だから国民にも義務が必要だ」というような答えをしている。国民のだれもがなんらかの「いやな思い」を体験したことがある。自分の「基本的人権」がだれかによって侵害されたと感じたことがあると思う。だから、「そうだ、稲田の言う通りだ。国民にも他人の基本的人権を守る義務がある」と感じてしまう。
 でも、違うだろう。そんなことは「憲法」で取り締まる(義務づける)ことではないだろう。
 個人間の「人権侵害」は普通の法律で取り締まれる。
 木村も憲法学者なのだから、その部分で「突っ込んで」質問してほしいなあ。学者のプライドが「素人質問」をさせないのだろうけれど、稲田は「憲法学者」に対してではなく、テレビを見ている「学者ではない人」「ふつうの市民/素人」に対して答えている。そうであるなら、「素人」として質問しなおすことが必要なのだ。
 ひとこと、「私が、たとえば稲田さんの基本人権を侵害する。一番の基本的人権の侵害は殺人だけれど、私が稲田さんを殺害したとしたら、それは憲法違反になるのですか、憲法で取り締まることになるんですか」くらいのことを言ってもらいたい。そうすると、そういうことは「刑法」で取り締まることがわかる。「憲法」は「刑法」とはちがったことを取り締まるための「法」であることがわかる。逆に言うと、稲田は「憲法」と「刑法」の違いも認識せずに、でたらめをいっていることがわかる。個人が個人の人権侵害をしたときのことを取り締まるために「憲法」があるのではないのに、そういうことすら稲田は認識せずに答えているということがわかる。
 「想定外」の質問をどれだけ自民党に浴びせることができるか、「想定外」の質問だけが、自民党の改正草案の問題点を、国民にわかりやすく説明できる。もっと素朴な、国民が、それはどうなるの? と親身になって聞いてしまう質問をしてほしい。「想定内」の質問では、「しっかりと議論をすめていく」の一点張りの答えしか返って来ない。
 憲法学者のプライドが素朴な質問を封じているのかもしれないが、これでははぐらかされるだけ。稲田の方に、木村の質問には答えたという「実績」だけが残る。「もう、すでに木村さんの質問には答えました。木村さんは私の説明に納得してくれました」は稲田は宣伝するだろう。



 「改憲論議」そのものとは違うのだが。ネット上で読んだ毎日新聞2016年7 月12日 20時37分(最終更新 7 月12日 20時37分)の記事「参院選 .放送時間3割減 争点隠し影響か」にも疑問が残った。

 NHKを含む在京地上波テレビ6局の参院選関連の放送時間が、2013年の前回より3割近く減ったことが分かった。専門家からは「政府与党が争点隠しをしたため報道が盛り上がらなかった」との指摘もある。

 と書きはじめられているのだが、この指摘はおかしい。与党が争点隠しをしているのはわかっている。それを問題にするためにメディアは結局的に動かないといけない。与党が争点隠しをしているからと、その「争点隠し」に乗っかって、「争点」を探そうとしていない。これはメディアとしての責任放棄であり、同時に与党の戦略への加担にはならないか。
 与党が「憲法改正が」を争点化したくない、それを暴くようなことをすれば「電波停止」の処分を受けそうで、こわい。そうであるなら、違う問題点を掘り起こせばいい。憲法にふれなくても、アベノミクスだけで争点は十分ある。アベノミクスをさらに前進させるというのが安倍の「公約」なのだから、そこに「争点」を持っていき、そこから問題点をほりさげていけばいい。
 深夜にバイトしている若者に「生活は、どうしている? 何を食べている? 食生活は前より充実している?」と聞くだけで、いろんな問題が明らかになる。
 いつも食べているものの何が高くなったか、安くなったか。
 コンビニ弁当はいくらのを食べているか。
 デートするとき、どこで食事する? ほんとうは、どんなデーとがしたい?
 こういう質問からはじめて、「政治がどうなっているのか」を考え始めれば、アベノミクスがどうなっているか若者にも身近になるし、それが「争点」だともわかる。
 そのとき、バイトで忙しいとなかなか時間がないよね、自民党の憲法改正草案って知ってる? 読んだことある? と一言つけくわえるだけで、国民と自民党の改正草案との「乖離」がわかる。
 あるいは、東京電力福島第一原発の事故で故郷に帰ることができなくなっている人に「いま、何がいちばん困っていますか」と問うことも、政治の問題点、「争点」を浮かび上がらせる力になるはずだ。いろんなひとが、いろんな生活をして、そのなかで困っている。その「困っている」ことのひとつひとつが「争点」である。
 「大局」をつついてにらまれるのがこわいなら、「個人的な問題」にこだわって、それをいろいろな角度から語ればいい。「少数意見」がそこから見えてくる。「少数意見」のあつまりが「民主主義」なのだ、「多様性」が「民主主義」の基本なのだとわかる。
 テレビも他のメディアも何かを「争点」にしたくないのだ。ただ安倍の反感をかわないように、報道を「自粛」したのだ。その結果、「少数意見」が抹殺された。「民主主義」が消された、というべきなのではないのか。

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