醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  456号  白井一道

2017-07-13 14:47:20 | 日記

   杜氏の歴史

 私がちょうど高等小学校を終えるころは大東亜戦争の真っ最中だったからね。高等小学校を終えると予科練に行ったんですよ。そのころの男の子は先生に勧められ行ったもんです。昭和二〇年、予科練を終え山口県防府の通信隊に入隊予定だったところ、八月十五日になったわけですよ。終戦でしょう。当時14歳だったかな。行くところが無くなっちゃったものだから途方に暮れていたんです。私の出身は新潟県の越路町というところです。昔から出稼ぎの多い所なんです。「久保田」という銘柄の酒を造っているので有名な「朝日酒造」がありましよ
う。私の家から車で十分くらいのところですよ。私の兄が酒屋に出稼ぎに行っていたもんだから、「どうだ」と聞かれましてね、連れて行ってもらったわけです。栃木県那須の天鷹酒造というところが振り出しなんです。那須といっても山の方ではなく、ずっと裾野の方ですから、回り中が平坦な田畑でした。前に那珂川が流れていました。冬、それほど雪は降りませんが、男体山から吹きおろす冷たい西風が吹くんです。その西風の中、半ズボンですものね。素足に藁草履を履きましてね。今は長靴を履いて仕事をしていますが、当時は素足に藁草履でし
た。水が流れるとすぐ凍るんです。滑って危険だから、素足に藁草履を履いたんです。初めは「ままや」でした。蔵人全員の食事の支度をするんです。先輩の蔵人たちから厳しい「いじめ」の洗礼を受けました。先輩たちがあまりご飯を食べない。そう思って少なくご飯を炊くと翌日、全員が一膳づつ余分にご飯を食べるんです。お櫃が空になってもご飯のお代わりが続くんです。泣きたくなりました。一年ほど「ままや」をだったでしょうか。翌年、酒造りに行くと今度は「洗いもの」でした。筅(ささら)で酒造りの道具をすべて奇麗に洗うわけです。真冬に半ズボン、素足に藁草履、素手に筅(ささら)を持って水を掛けながら道具を洗うんです。寒く、冷たい仕事でした。三年ほど、栃木県の「天鷹」さんにお世話になりました。その後、現在は廃業してしまいましたが、茨城の酒蔵にお世話になりました。そこでの仕事は「釜屋」から始めました。「釜屋」というのは米を蒸し上げるまでのすべてに責任をもつ職務です。精米の具合いを見て、米を洗い、水につけ込む時間を決め、湯を沸かします。昔は薪やおが屑です。なかなか火がつきにくく、苦労しました。朝、三時には大釜に点火しました。4時ごろ湯が沸くと全員が起きてきます。米を甑(こしき)に入れ、大釜の上に設置します。今は6時ごろボイラーに点火するだけでいいんですから、本当に楽になりました。蒸し上がった米を甑の中から掘り出す仕事も辛いものでした。揮一枚になり、朴歯(ほおば)のような大きな足駄を履いて、甑の中に入り、米を掘り出すんです。体中が真っ赤に火脹れしてしまいます。火傷もします。蒸し上がった米の温度は七〇度から八十度近くあるんじゃないでしょうか。
 「釜屋」を終えると「酛師」の仕事をさせてもらいました。この仕事は酒母を造ります。蒸米に麹と水を張り、米の澱粉が麹によって糖に変わった後、酵母を入れ、発酵を待ちます。泡が出てくると竹の先を細かく裂いた棒でかき回すんです。こうして泡を一時間半毎に消すんです。深夜にも起き出して行って泡を消します。この仕事がきつかったですね。
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