醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  400号  白井一道

2017-05-17 14:50:49 | 日記

 居酒屋の人気者

 行きつけの居酒屋の一番人気はヒーちゃんだ。六〇年におよぶ人生の間に一度も太ったことがないという。背が低く、痩せている。背をかがめ、静かに居酒屋の暖簾をくぐってくる。知った顔を居酒屋のカウンターに見つけるとえもいわれぬほほ笑みを浮かべ、ヨッと手をあげる。その姿に愛嬌がある。カウンターに腰掛けると隣の知り合いにすぐ話しかける。『ここ三・四日、頭が痛くて、困ったよ』と愚痴る。ママはいつものことと、ヒーちゃんの話にのらない。それでも独り言のように、ひとくさり愚痴ると気が付いたように『ウーロン杯』と元気よい声を出す。
ヒーちゃんは大の巨人ファンである。昨晩のナイターで巨人が負けるとその野球解説を肴に酒を飲む。野球は居酒屋の酒の肴である。野球を肴にウーロン杯を飲みおえるとカラオケの厚い本を取り出し、指をなめなめ、目を細めて番号を調べる。ひーちゃんの十八番は「武田節」である。ドスが効いて聞かせる歌だ。痩せて小さな体からよくもこんな大きな声がでるなと感心する。唄い終って一口、ウーロン杯を飲むとまた話し始まる。『どうも最近、腹の調子が悪い』と訴える。腹の調子が悪いわりには焼酎をぐいぐいと飲む。つまみをあまり食べることはない。他の客が唄っているときは次、何を唄うかカラオケの本のページを繰る。決まるといくらでも次々と歌を歌う。唄い終わると愚痴る。
 「腰が痛くてまいったよ」と弱く笑う。ヒーちゃんは三〇代のころ、椎間板ヘルニアの手術をした。「いくら手術をしても良くはならない」と愚痴る。昔はさんざん足を引っ張るために病院に通った。足を引っ張ったら余計に腰が痛くなって弱ったよ、と自分のうかつさを笑う。腰が痛にいときに足を引っ張ったら余計に痛くなるんだよと自を丸くして言う。腰が痛いと言っているわりには、元気よく椅子から降り、カラオケを唄い始める。頭が痛い。腹の具合いが悪い。腰が痛い。ヒーちゃんの話が一通り終わり、カラオケを五・六曲唄う。ウーロン杯を三・四杯飲むとそろそろ帰るころだ。ヒーちゃんには立派な苗字がある。『西大路』という公家さんのような苗字をもっている。アイドルのヒーちゃんを苗字で呼ぶ人はいない。いつの頃からか、低い声で体の調子を愚痴る様子がいつもヒー、ヒー言ってにいるように聞こえるから馴染みの客たちがヒーちゃんと呼ぶようになったようだ。「ヒーちゃん」と自分よりうんと年の若い客から呼ばれても嫌な顔をすることはない。「な
んだにい」と元気よく、ほほ笑む。人生に疲れた顔に目が輝く。その顔が美しいせいか、誰もがヒーちゃんと心安く呼びかける。ママもまた、ヒーちゃんには何でも言えるような関係だ。ヒーちゃんはあと、一年数力月で退職だ。そのヒーちゃんに会社は転勤を命じたという。茨城の下妻からバスで30分も行った所にある工場への配置替えだという。「会社は俺が辞めるのを待っているんじゃねぇーのかな」と弱々しく笑う。自宅から電車で通えるところにしてほしい、と人事担当者にお願いしたが、無理だとの話だ。配置替えの意見具申は現場担当の係長がしてにいるのではないかと、ヒーちゃんは疑っている。「皆から嫌われているんだ」と人の悪口を言わないヒーちゃんが感情をあらわにする。退職までの数力月、ヒーちゃんは単身赴任する覚悟を決めている。それまではカラオケもお預けだと寂しげに笑った。
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