田代正一の忘備録

日々気ままに

海軍中将・大西滝治郎

2017年08月09日 | 歴史・文化

歴史上の人物を探してみても、悲劇的な末路を遂げた人物の多くは勝利を夢みつつ失敗してしまった連中ばかりで、たとえば西郷隆盛なども破滅を意識して鹿児島で挙兵したわけではない。こうして、厳密に選んでゆくと、「破滅の美学」にふさわしい事例はじつは皆無ではないかとさえ思われてしまうのだが、わたしの知る限り、たったひとり、そうとしか呼びようのない人物がいる。

過ぐる太平洋戦争戦争末期に、悪名高き「特攻」(特別攻撃隊=人間爆弾)を発案し実行したといわれる、海軍中将・大西滝治郎その人である。

大西は、「特攻」は捷一号作戦のみに限る、と言明していたが、敗勢打開の妙策を持たない陸海の首脳は、大西の尻馬に乗って「特攻特攻」と念仏のように唱えつづけた。

結果、陸海併せて五千人もの若者たちが「特攻」死した。大西はそのすべての責任は自分にあると、自覚していた。その自覚はやがて「二千万人特攻」論に発展していった。

〈大西の思想〉を探るため、・・・・児玉誉士夫氏に取材を要請した。児玉氏は晩年の大西中将に形影相伴うごとく仕え、戦後には淑恵未亡人を自宅に引き取って世話を看つづけた人である。児玉氏は快諾して下さり、数時間にわたって終始謹厳誠実な口調で、大西中将の苦衷を語ってくれた。

「二千万人特攻論は当時でも狂気の沙汰と言われて、大西さんは戦後も狂信的な徹底抗戦派の首魁にされてしまったが、合理主義者の大西さんがそんなことを心底から考えるわけがない。だいいち二千万人もの人間を特攻にだすほどの飛行機も兵器も日本にはなかった。大西さんの直意は、天皇陛下(昭和天皇)に最前線に立って玉砕していただきたい、ということだったと思う。その際は大西さん自身はもちろん、海軍大臣も軍令部総長も首相以下の閣僚も、すべて陛下に供奉して死を倶(とも)にする。そうなってこそはじめて戦争に終止符を打ち、新生日本を誕生させることが出来る。皇統は皇太子(現天皇)がご健在だから心配ない。とにかくこの戦争に責任を持つ成人男子のすべてが死ななければ、民族の蘇生など出来ない、というのが大西さんの結論だった。二千万人特攻論はそのための名目だった。なん千人もの部下将兵を特攻に送り出した大西さんとしては、そう考えなくては居ても立ってもいられなかったのでしょう。」

上(かみ)御一人に御盾として身命を擲(なげう)つのが本分である軍人が、その至尊に「死」を慫慂(しょうよう)するのは大不忠である。末代まで辱(はじかし)めを受けても甘んじなければならない。それでもそれを主張しなければ、「天皇陛下」の御名のもとに「特攻」を命じた大西としては、軍人であるより以前に、男として、人間として、一歩も引けなかったのであろう。

自分の命はもちろんのこと、海軍も、国家も、天皇のお命までもすべてを賭けて、民族の再生という後世の「勝利」を掴もうとした大西の情念は、アナーキーといえるほど純化されたものであった。これを「破滅の美学」と言わずしてなんと呼べるだろうか。

しかし大西の主張は軍首脳にまったく黙殺され、生き残り得た天皇の御聖断によって一気に大戦の幕は閉ざされた。

敗戦の比の翌日、昭和20年8月16日、大西は渋谷区南平台の官邸二階の八畳間で、古式にのっとり、軍刀で腹十文字に掻き切り、咽喉と心臓部も刺して自刃した。だが絶命したのはそれから十数時間後であった。苦悶の息のうちで大西は駆けつけた児玉たちに、「生き残るようにはしてくれるな」と語気鋭く叱った、という。

(笠原和夫『破滅の美学』ちくま文庫、2004年)


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