syuの日記・気まま旅

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上野桜木町での戦後

2016-09-16 | 思い出
現在の寛永寺



寛永寺前


話を元に戻そう、私は母に引かれ上野の山をぬけ、谷中の桜木町と云う門前町に着いた。
かつては、下谷桜木町と呼ばれ、谷中墓地という多数の寺院があり、江戸時代の歴史のある門前町。
地名の通り、谷中・上野の桜の並木が、特に、上野公園の桜は、樹齢を重ねたものがい。時期になると花見客で賑わう。
町内にある「寛永寺」は、寛永2年、徳川3代将軍 徳川家光の治世に建てられ、徳川家の菩提寺として知られる。
寺には、徳川家の墓所として6人の将軍の霊廟が、また、大慈院には、ラストエンペラー徳川慶喜が謹慎していた場所でもある。
(慶喜の墓は谷中墓地)寛永寺域であったことから、その子院が数多く、京成電鉄の「寛永寺坂駅」があった。
近くには、正岡子規庵(上根岸)・また、川端康成も居をかまえていたと云う。
この門前町の谷中墓地の入り口辺りに、父が一人で住んでいた借家に着いた。
そこは、50坪ほどの広い庭もあり、平屋造りであったが、家は古く、雨漏りがするが、静かな、落ち着いた家であった。
家族全員無事で、まずは、ここから全員再出発となった。

Sは、秩父の影森小学校から鶯谷駅に近い「N小学校」に転校した。
震災で大田区の家も全財産も失ったが、心機一転家族全員で負けずに頑張ろうと誓い合った。
また、この家に、家族で山形に疎開中だった、従兄弟・高校生のTさんが同居することに。
賑やかな一家団欒のひと時を迎えていた。
父は40歳を超え、これまで一度も軍務についたことがない。それは、関東大震災復興要員で、この世代の東京生まれは、兵役を免除されていたと云う。

昭和20年10月29日、一枚10円の宝くじが発売されている。一等10万円、副賞として生地50ヤードであった。
またはずれ券4枚にたばこ10本、当時一日3本配給で、たばこ目的で宝くじを買う人が多かったと云う。
1945-47年昭和20年―22年、
ポツダム宣言を受諾し終戦、連合国による占領が始まった、日本国憲法が公布、6・3・3制の学校教育が。
国連連合が・ベルリンが閉鎖。


「闇市」
戦争後の連合国軍占領下の日本の混乱期に成立した商業形態、「闇市」。
政府の統制物資がほぼ底を突き、物価統制令下での配給制度が麻痺状態に陥り形骸化し、都市部に居住する人びとが欲する食料や物資は圧倒的に不足していた。食料難は深刻を極め昭和20年、の東京の上野駅付近での餓死者は1日平均2.5人で、大阪でも毎月60人以上の栄養失調による死亡者を出した。
ほどんど全ての食料を統制物資とした食管制度のもとでは、配給以外に食料を入手することは即ち違法行為、しかし一般の人びとは、満員列車に乗って農村へと買出しに出かけ、米やサツマイモのヤミ物資を背負って生きていた。
食料を生産していない都市の住民は、ヤミ物資に頼らなければ飢え死にしかねなかったのである。
食料物資は絶対的に足らず占領軍の主体となったアメリカにより援助があったものの、配給の遅配が相次ぐ事態となっていた。
配給制度がゆらぎ、人びとは買出しやヤミ物資の購入でようやく糊口をしのいだ。日々の食事は雑炊が続き、米よこせ運動が各地で勃発した。
敗戦後間もない昭和20年11月、「餓死対策国民大会」が日比谷公園で開催された。
知ってほしいのは、貧富差で、麦・芋・外米を食べた事はなく常に白米しか知らない家庭もコネ等であったことを。







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