syuの日記・気まま旅

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南千住 syu散歩

2017-02-22 | syu散歩

「千住・お化け煙突」ー1953年、監督五所平之助 俳優上原健・田中絹代なかー
場所によって一本にも二本にも、又三本四本にもみえ、界隈に暮す無邪気な人々をたえずびっくりさせ、そして親まれた千住のお化け煙突。

足袋問屋に勤める緒方隆吉は、両隣で競いあう祈祷の太鼓とラジオ屋の雑音ぐらいにしか悩みの種をもたぬ平凡な中年男だが、戦災で行方不明の前夫をもつ妻弘子には、どこか狐独な影があった。だから彼女が競輪場の両替えでそっと貯金していることを知ったりすると、それが夫を喜ばせるためとは判っても、隆吉はどうも裏切られたような気持になる。
-緒方家二階の下宿人、ひとのいい税務署官吏の久保健三は、隣室にこれまた下宿する街頭放送所の女アナウンサー東仙子がすきなのだが、相手の気持がわからない。
彼女は残酷なくらい冷静なのである。
--と、こんな一家の縁側に或る日、捨子があった。
添えられた手紙によれば弘子の前夫塚原のしわざである。
戦災前後のごたごたから弘子はまだ塚原の籍をぬけていない。
二重結婚の咎めを怖れた隆吉は届出ることもできず、徒らにイライラし、弘子を責めつけた。泣きわめく赤ん坊が憎くてたまらない。
夜も眼れぬ二階と階下のイライラが高じ、とうとう弘子が家出したり引戻したりの大騒ぎになった。
騒ぎがきっかけで赤ん坊は重病に罹る。
あわてて看病をはじめた夫婦は、病勢の一進一退につれて、いつか本気で心配し安堵しするようになった。
健三の尽力で赤ん坊は塚原の今は別れた後妻、勝子の子であることがわかり、当の勝子が引取りに現われた時には、夫婦もろともどうしても赤ん坊を渡したくないと頑張る仕末である。
彼らはすつかり和解していた。
赤ん坊騒ぎにまきこまれて、冷静一方の仙子の顔にもどこか女らしさが仄めき、健三はたのしかった。……おばけ煙突は相もかわらず、この人達をおかしげに見下している・・・・・。「映画・煙突の見える場所」から。

                          JR南千住駅ー地下鉄日比谷線


「浄土宗寺院の延命寺」-山号・豊国山。

昭和57年、小塚原回向院から分院独立し開山した。

                首切り地蔵(延命地蔵尊)が祀られている。


              何度も、何度も、震災で首が落ちている。


「回向院」
井伊直弼による「安政の大獄」で処刑された。

明治維新への精神的指導者と云われる「吉田松陰」
開国派として危険視された「橋本左内」、更に著名な幕末期の儒学者で、日本外史で有名な儒学者・頼山陽を父に持つ「頼三樹三郎」
幕末の重要な思想家たちの墓所がある。
吉田松陰の墓所は、1863年に高杉晋作らによって世田谷区若林に改装され、明治時代、その地に松陰神社が建立されたので、ここには当時の墓石だけが、文化財として保存されていると云う。
因みに政治犯であった彼らの処刑は、小塚原刑場ではなく伝馬町牢屋敷でしたが、罪人として回向院に葬られた。


  明治維新を産み出すきっかけとなった歴史的な弾圧事件を、その中心人物である三人が今に伝える、幕末史では重要な墓所。


1860年3月3日、雪に見舞われた江戸で、江戸城途上の為、彦根藩邸を出発した井伊直弼ら一行約60名が、桜田門外に差しかかった時、総勢16名の元水戸浪士に襲いかかられた。
60名の警護がいながらも、余りに突然であったことと、寒い雪の日と云うことがあり、襲撃の体勢が遅れているうちに井伊直弼は弾丸を受け、駕籠でもがいているところで首をはねられたのです。
この時の元水戸浪士の現場での総指揮者が関鉄之介で、実際の襲撃には不参加でしたが、襲撃後、全国で潜伏中に捕えられ斬罪されたのち、ここ回向院に埋葬されました。
桜田門外の変は、急速に明治維新に向けて動き出す歴史上重要な事件で、ここにはその歴史の証人である、関鉄之助をはじめ多くの元水戸浪士たちが眠っている。



「坂下門外の変」などの討幕運動に関連した処刑者や、昭和に起きた“二・二六事件”の磯部浅一の墓所もある。

江戸時代後期に大名屋敷を専門に荒らした有名な窃盗犯・鼠小僧次郎吉・河内山宗俊と共に悪事を働いた片岡直次郎・明治初期の稀代の悪婦として知られ、最初の夫を毒殺後、各地を放浪しながら悪事を重ねた「高橋お伝・江戸時代の侠客で、喧嘩で深手を負った自分の片腕が見苦しいと、子分に鋸で切り落とさせた伝説の持ち主腕の喜三郎等、全て小塚原刑場で処刑され、回向院に葬られた。
(鼠小僧次郎吉の本来の墓は墨田区の回向院で、ここには義賊に恩義を受けた人々が建てたと言われている)



回向院の壁には、前野良沢、杉田玄白の『解体新書』の扉絵がついた記念碑がある。
『解体新書』を作成するにあたり参考にした“ターヘル・アナトミア”の人体解剖図を検証するため、前野良沢、杉田玄白らが小塚原刑場を訪れ、一般的に解剖などは出来ないのですが、ここでは刑死者の解剖“腑分け”が行われていたと云う。

解剖にあたっていたのは“虎松の祖父”と呼ばれる老人で、肺、心臓、胃などを正確に切り分けて説明。この様子が“ターヘル・アナトミア”の解剖図と一致していたことから、良沢や玄白はその意を強くし、その後、難解なオランダ語の翻訳に苦しみながら『解体新書』を作り上げた。
西洋医学が紹介される前に、人体解剖技術と主要臓器の知識があった“虎松の祖父”の腑分けが、日本近代医学の黎明期の出発点となった。













「小塚原刑場」
江戸のお仕置場(刑場)は、品川の「鈴ヶ森刑場」と千住の「小塚原刑場」の二つ。
小塚原の刑場は
間口60間(108m)、奥行30間余(54m)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔・斬罪・獄門などの刑が執行された。
首切り地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年の1741年、造立されたものであると云う。

刑罪場
千手街道中小名小塚原縄手の西脇にあり、本所回向院の持地なり。
石像坐身の地蔵あり。高さ1丈又高1丈余の題目の石碑あり。元禄11年立る所なり。
傍に高さ8尺の石地蔵あり。元文4年立る所、又文化年中立る所の石佛阿弥陀の像及び稲荷社あり。
萬冶年中町奉行渡邊大隅守村越長門守命を傳へ、牢死若くは道路にて倒れし屍を(小塚原)回向院境内に葬埋せしむ。
然るに年を追って隙地なければ同院より願ひ上て寛文7年此刑場を持地に賜はり傍に庵を造立し、阿弥陀を置。(中略)
かの無縁屍を葬と云。
按に刑罪場は始本町4丁目の邊にありし由、後二所に分れて、南方は本材木町5丁目、北方は浅草鳥越橋の際にありしと云こと、此書に見ゆ。材木町にありし事は他の所聞なし。鳥越橋の事は諸雑記にも載たり。
其地は元鳥越甚内橋の邊なりし由、夫より又聖天町西方寺の向に移せり。
今も刑罪場の蹟なりとて、8間四方許の所残れり。
そこより当所に引し年暦は傳へず。(新編武蔵風土記稿より。)

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