syuの日記・気まま旅

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日本の中心 東京駅の歴史

2017-05-21 | syu散歩
戦災と疎開のため、麹町区では七割方人口が減少し、残った人々はバラックにする材料さえない焼け跡の瓦礫の中で、戦後の生活の立て直しに必死に取り組み、学校も復興され、昭和20年の年末にはあちこちの小学校で授業が再開されていく。
東京は、改正で15区が昭和7の1932年、市域拡張後35区、昭和22年、に東京22区に再編された。
大手町のある麹町区は神田区と合併して千代田区となり、新しい地方自治法のもと区議会が開かれ、戦後の区政がはじまり、最初の大仕事は濠の埋立で。
町の復興の妨げとなる大量の燃え殻や灰で濠を埋め立て、埋立地を売却して復興資金に充てようという計画で、町の景観が大きく変化することになる。
講和条約が成立し、占領が解除された昭和20年代後半から30年代のはじめにかけて、大手町から霞ヶ関にかけての一帯は、中央官庁街として、ビルの延面積の大幅拡張がはかられ、高度経済成長時代の到来を象徴するものであった。
ビル新築ラッシュによって丸の内・大手町地区の景観が大きく変化していくなか、霞ヶ関や大手町に分散していた中央官庁を統合して中央官衙街の建設を推進する計画が大きな進展をみせ、昭和27年に政府が出した公告「霞ヶ関地区ほか二団地を対象とする中央官衙地区整備に関する計画」ほかで、都市計画として「霞ヶ関」の決定が行われ、他方、大手町地区には、各省庁の地方出先機関が合同庁舎内に集中的に配置される。
同地区には広い遊休国有地が生まれ、それらは官庁施設整備の財源充当の目的で、民間企業へと払い下げられ、老朽化した役所が取り壊された跡地には、日本開発銀行や日本長期信用銀行の本社ビルをはじめとする金融機関、読売新聞、日本経済新聞、産経新聞などの本社ビル、経団連会館、農協ビル、工業倶楽部などが次々と建設されていきます。
こうして大手町地区は、丸の内地区からつづくオフィスビル街として、その姿をすっかり変えることになり、都庁は、副都心新宿へ移転した。

煉瓦造りの「東京駅」は、やっと工事が終了した。(一部、旧東京駅の煉瓦が)


「辰野金吾」 1854-1919  64歳没 (東大工学部)建築家

日本銀行・東京駅など


1854年の嘉永7年、肥前国(現在の佐賀県)唐津藩の下級役人・姫松蔵右衛門とオマシの間に次男として生まれ、姫松家は足軽よりも低い家格。
明治元年、叔父の辰野宗安の養子、明治6年、工部省工学寮(のち工部大学校、現在の東大工学部)に第一回生として入学。
明治8年、二年終了後に、造船から造家(建築)に転じ、明治10年、ロンドン出身のジョサイア・コンドルが造家学教師に着任。
明治12年、造家学科を首席で卒業(同期生に曽禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎)。明治13年、英国留学に出発、コンドルの師であるバージェスの事務所やロンドン大学で学ぶ。明治16年、日本に帰国。
明治17年、コンドルの教授退官後、工部大学校教授に就任し、明治19年、帝国大学工科大学教授、造家学会(のちの日本建築学会)を設立。
辰野金吾建築事務所を設立(所員は岡田時太郎など)、明治20年、明治31年、帝国大学工科大学学長、明治35年、工科大学を辞職。
1919年の大正8年、 国会議事堂の設計競技で審査員を務め、当時大流行したスペインかぜに罹患し死去している。



「東京駅」
皇居の真正面に駅が建設され行幸道路により直結され、また駅舎の中央に皇室口が設けられたことなど、完成した東京駅は「国家の中心駅」「天皇の駅」としての位置づけが強く打ち出された。
                  竣工 1914年の大正3年


大正 3年「東京駅」と名称、営業を開始、大正 4年、東京ステーションホテルが開業、大正12年、関東大震災が起こる(駅舎はとくに被害無し)
昭和 4年、八重洲口開設され、昭和20年、空襲による火災、屋根等が焼失する

         昭和22年、3階建の駅舎が2階建の駅舎として完成する。


         駅面積 182,000M2(東京ドーム3.6分)


          馬が中心の馬車が(手前に人力車が)


          丸の内南口


「原敬」 1856-1921 政党内閣を組織した。南部藩重臣の子。政治家。カトリックの牧師の学僕となって苦学、司法省法律学校中退、
記者から外務省に入省、「井上馨・陸奥宗光」に見込まれ次官に、朝鮮駐在公使を最後に退官、大阪毎日新聞社社長経営手腕発揮。
1900年「立憲政友会」創立参画、北浜銀行頭取・古河鉱業副社長など財界勢力築く。
第4次伊藤博文内閣・逓信大臣ー西園寺公望内閣内務大臣ー政友会で実権を握る。-政友会総裁・1918年政党内閣組織を。
腐敗事件暴露され、暗殺。

1921年の大正10年11月4日、首相原敬が、鉄道省山手線大塚駅職員の中岡艮一によって東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺(刺殺)された。
大塚駅の転轍手であった「中岡艮一」は、以前から原首相に対して批判的な意識を持っていた。
中岡の供述によれば、原首相が政商や財閥中心の政治を行ったと考えていたこと、野党の提出した普通選挙法に反対したこと、また尼港事件が起こったことなどによるとされている。
その他、一連の疑獄事件が起きたことや、反政府的な意見の持ち主であった上司・「橋本栄五郎」の影響を受けたことなどもあって、中岡は原首相暗殺を考えるようになったと云う。
1921年11月4日、原首相は京都で開かれる立憲政友会京都支部大会へ向かうために東京駅乗車口の改札口へと向かっていたが、午後7時25分頃、突進してきた中岡に短刀を右胸に突き刺された。
原首相はその場に倒れ、駅長室に運ばれ手当てを受けたが、すでに死亡していた。突き刺された傷は原首相の右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態であったという。
逮捕された中岡は、死刑の求刑に対して、東京地裁で無期懲役の判決を受けた。
その後の東京控訴院・大審院でも判決は維持され確定した。
なおこの裁判は異例の速さで進められ、また調書などもほとんど残されていないなど謎の多い裁判であり、その後の中岡の特別な処遇(3度もの大赦で1934年には早くも釈放された、戦時中には比較的安全な軍司令部付の兵となっていたなど。
本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者も多い。

駅の現場である現丸の内南口の北東面左端付近には、壁に事件の概要を記したプレートが。


中岡は、玄洋社などの当時の右翼勢力と関係があったという説。右翼テロリスト五百木良三が犯行を予言していたことや、右翼が好んでいたとされる短刀での犯行手口などが根拠となっている。
犯行の1カ月前、中岡と上司・橋本栄五郎との政治談義の中で原政治の批判になり、橋本が「今の日本には武士道精神が失われた。
腹を切る(政治家は悪いことをした時に、責任を取るという意味)と言うが、実際に腹を切った例はない」というような主旨のことを言ったのに対し、中岡が「腹」と「原」を誤解し、「私が原を斬ってみせます」と言明したという。
このため、橋本のその言葉が事件の直接的なきっかけとなったとして、橋本も殺人教唆の疑いで逮捕されたが、判決は無罪であった(求刑は懲役12年)。

            煉瓦造りの丸の内側の正面


          旧東京駅の一部が残されている。


               北口駅前


             丸の内正面(皇居)


             南口駅前(中央郵便局)


                工事完成図


                北口(工業倶楽部)


「渋沢栄一」 1840-1931 明治・大正の実業界リーダー。埼玉県大里郡。
1867年徳川慶喜弟昭武に随行してパリ万国博覧会に出席、これが後年、我が国の近代化を推進する。
明治政府から紙幣拝借金50万両余をもとに「商法会所」を設立、これが日本初の「合本組織・株式会社」である。官僚から実業界へ専念
王子製紙・東京ガス・・・・500余の会社を設立している。銀行集会所・手形交換所・商工会議所など組織化、又教育、文化面にも力を。

                 渋沢栄一像


                日本銀行に近い


「常盤橋」
元は「大橋」と称され、江戸城の大手門から浅草に直接向かう本町通り(現在の江戸通りの原型とされる)上に置かれていたと云う。
浅草に通じていることから「浅草口橋」とも呼ばれた。
太田道灌と親交が厚かった「正宗龍統」が記した「江戸城静勝軒詩序并江亭記等写」に登場する河口に架かる高橋を当時の平川(現在の神田川・日本橋川)の河口付近にあったと推定されている常盤橋に当てる説(菊池山哉説ほか)があるが、賛否両論がある。
その一方、永禄11年の1568年、に「北条氏政」が下総国の高城胤辰を江戸城防衛のために駐屯させた「江城大橋宿」は大橋(常盤橋)そばにあった宿場町であったとする説もある。
徳川家康による江戸の再整備後に日本橋が誕生して江戸の交通が南北を軸にする以前は、江戸城及び大橋(常盤橋)を中心とした東西の軸によって陸路が形成されていたと考えられている(江戸城の西の道は鎌倉や府中に、大橋を通る東の道は浅草を経由して奥州や房総に連絡していたと考えられている)。
ただし、大橋が架かる日本橋川は徳川家康の関東移封後に開削されたとも考えられており、その場合は常盤橋もそれ以前には存在しないことになる。
この場合、当時の平川は日比谷入江に注いでおり、そこに架かっていた現在の江戸城大手門の橋(大手橋)は三ノ丸が内城に取り込まれるまでは大橋と呼称されていた(『別本慶長江戸図』『慶長江戸絵図』、それまでは現在の二ノ丸下乗門を大手門としていた)。
「東京市史稿」では、高橋は大橋=大手門として、当時の江戸市街の中心がそこにあったとしている。

      現在のアーチ橋は、1926年建設された。




       日本橋川も姿を変えていく。


「浜口雄幸」 1870-1931  1930年11月東京駅で右翼青年に狙撃され、その傷で翌年死去した首相。
1927年民政党結成・初代総裁に選ばれ・1929年田中義一内閣倒壊ごを受けて内閣を組織し、軍縮促進、「ライオン首相」と呼ばれ期待された。
世界恐慌と重なった。
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