限りなき知の探訪

40年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第313回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その156)』

2017-06-22 22:27:17 | 日記
前回

【255.童謡 】P.2499、AD266年

『童謡』とは一般的には日本では「子供のために作られた歌謡」という意味で用いられる。しかし、漢文の文脈ではすこしニュアンスが異なるようだ。

辞源(1987年版)では次のように説明する。
「児童の歌謡。楽器や伴奏を用いず、歌唱するを謡という」
(児童歌謡。不用楽器伴奏而歌唱曰謡)


また、辞海(1978年版)には古代の辞書『爾雅』の《釈楽》に次のような説明があると述べる。
「『徒(ただ)歌うを謡という』。徒(ただ)歌うとは、音楽の伴奏なく歌うことを言う」
(『徒歌謂之謡』。徒歌、不以音楽相合而歌也)

これからすると、現在、ピアノ伴奏などで歌っているのは童謡とは言えないということになる。

二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で『童謡』を検索すると次の表のようになる。



この表にはないが、「童謡」は先秦時代の書(『春秋左氏伝』『国語』『楚辞』)にも見えるので相当古い語である。しかるに唐以降は使用頻度がめっきりと少なくなっている。「童謡」自体が無くなったとも思えないので、別の語句が用いられるようになったと推測される。

さて、資治通鑑で「童謡」が使われている場面を見てみよう。

三国志時代の末期、蜀が滅び、魏が晋に代わり、残るは呉だけとなった。呉主の第4代皇帝・孫皓は暴君であった上に贅沢極まりなかったので国庫だけでなく庶民も蓄えが無くなった(奢侈無度、公私窮匱)あまりの無茶ぶりに、陸凱が諌めた。

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呉主(孫皓)は武昌に滞在していたので、食糧はすべて揚子江の下流の町、揚州から流れに逆らって運搬しなければならなかったので、庶民は大変苦しんだ。その上、贅沢極まりなかったので国庫だけでなく庶民も蓄えが無くなった陸凱が次のように諌めた。「現在、国境は平穏ですので、当面は人民の富を増やすことに注力すべきです。それなのに、贅沢を極めているので、却って平和な時代の方が民が早死にしているありさまです。あれよあれよと言う間に国庫が空っぽになってしまっています。私はこの点が心配です。昔、後漢が衰え三国が鼎立しましたが、すでに魏と蜀が滅亡し、どちらも晋に吸収されてしまいました。国家の衰亡を間近に見せられたわけです。私は陛下の為を思うと、国家が衰亡しないか心配です。

武昌の土地は防御し難いうえに、土地も石だらけで痩せています。王者の都としてふさわしくありません。また、巷の童謡には次のような文句もあります。『建業の水を飲むことはあっても、武昌の魚は食べたくない。建業に戻って死ぬ方が、武昌に住み着くよりましだ。』この文句から、人々の思いと天の意図がくっきりと分かるではないですか!

呉主居武昌、揚州之民泝流供給、甚苦之、又奢侈無度、公私窮匱。凱上疏曰:「今四辺無事、当務養民豊財、而更窮奢極欲;無災而民命尽、無為而国財空、臣窃憂之。昔漢室既衰、三家鼎立;今曹、劉失道、皆為晋有、此目前之明験也。臣愚但為陛下惜国家耳。

武昌土地危険塉確、非王者之都;且童謡云:『寧飲建業水、不食武昌魚;寧還建業死、不止武昌居。』以此観之、足明人心与天意矣。
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これに続く文章で、陸凱の「贅沢をやめ、質素に心がけよ」とのしつこく諫めたので、孫皓は心の中では怒った、との記述がある。ただ、陸凱が国家の重鎮であることから処罰は思いとどまった(呉主雖不悅、以其宿望、特優容之)。

暴君の孫皓にしては、よく我慢したものだと元の文章を書いた『三国志』の陳寿は、果たして陸凱が本当にこのような上書を孫皓に提出したのか疑問視し、次のように述べる。

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三国志(中華書局):巻61・呉書16(P.1404)

【大意】私(陳寿)は荊州や揚州から来た者や呉出身者に、陸凱が孫皓に提出した20ヶ条の諫言書のことを聞いたことがあるかと尋ねたが、誰も聞いたことがないと答えた。私の想像では、陸凱は文章を書いたものの恐くて提出せずずっと引き出しの中にいれていたが、死ぬ直前に孫皓から送られてきた使者の董朝にこの文章のことを託したのだろう。事実関係は明らではないが、たとえ文書を書かなかったとしても、孫皓の悪癖を指摘しただけでも感心なことだ。それで、後世のためにここに書き残すことにした。

予連従荊、揚来者得凱所諫皓二十事、博問呉人、多云不聞凱有此表。又按其文殊甚切直、恐非皓之所能容忍也.或以為凱蔵之篋笥、未敢宣行、病困、皓遣董朝省問欲言、因以付之。虚実難明、故不著于篇、然愛其指擿皓事、足為後戒、故鈔列于凱伝左云。
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陳寿は、この文章は書かれたが提出されなかったと考えたが、『資治通鑑』ではその説明部分を削除した。つまり、司馬光は実際に提出された、と考えたのであろう。

ローマでも同様のことがあった。キケロはローマきっての雄弁の弁護士である。あるとき、アッピア街道で、プルケル(Publius Clodius Pulcher)が何者かによって殺害されたが、下手人はキケロの友人のミロだと告訴された。キケロはミロの弁護に務めたが残念ながらミロは有罪となってローマから追放される破目となった。この時の弁論が『ミロ弁護』(Pro Milone)として今に伝わるが、ミロはこれを読み「法廷でこのように立派に言ってくれておれば!」と残念がったと言われる。

続く。。。
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