先ごろ、私の『ベンチャー魂の系譜』の最後の回にディベートを開催した。テーマは、起業(ベンチャー)に関するものを予め2題出しておいてそれぞれ、自分の思う立場から議論した。当日は、議論の時間が実質的に1時間程度であったので、いろいろ意見は出たものの、ディベートの勝ち負けを判定するまでには至らなかった。
このディベートの進行役しながら、感じたことを以下に述べたい。
まず、このようなディベートは初めての学生が多かったようで進行にかなり戸惑っていたようであった。そもそもディベート(debate)とはその語源を探ると de(強調辞) + bate(叩く)である。これからディベートとは『徹底的に(相手を)叩きのめす』という意味合いがある。つまり、議論する、というより、相手の言辞をとらえてその論理矛盾を衝き、自分の主張を押し通すという、極めて論争的な意味がある。ところが、相手を思いやる美風の日本に育った学生達には、このようなアグレッシブ(aggressive)な態度は、たとえ練習と分かっていても取れなかったようだ。
しかし相手の論理の欠点を衝くというのは、意地悪いだけではできる事ではない。相手の話を聞きながら、自分の頭のなかでその論点を整理し、相手の話しを構造を完全に理解した上で、どの点で論理が矛盾しているか、欠落しているかを把握し、かつ、それをどのように衝けば一番効果的かを瞬時に判断できないといけない。要するに、教育的観点から見たディベートの意味は、相手を叩くことではなく、自分の頭のなかの整理能力の向上にある、と私は考える。
その意味で、相手の話を聴いている時もそうだが、自分が話す場合にも、話すテーマについて、どのような順序で話すかという『話の筋道マップ』ができあがっていなければならない。ところが、学生達の話を聴いていると、このマップを描いて話を進めている学生はわずか2割程度であった。大抵の学生は、マップがないまま、あたかも海図を持たないヨットが大海にでて風に吹かれるまま漂流しているように、論旨不明瞭な話し方をしていた。私も、学生時代を振り返るとこのような拙い話し方であったが、残念ながら小学校からの教育ではその点を具体的に指摘された記憶がない。つまり、日本では学校教育の中で明瞭に話すという訓練がなされないのだ。しかし、本人は自分自身の話し方について苛立ちを感じているはずだ。そしたらどうすればこの欠点はどのようにすれば改善できるのか?この点については下記のブログ参照:
想溢筆翔:(第14回目)『外国語会話上達にもつながる弁論術のポイント』
想溢筆翔:(第38回目)『プラトンに学ぶ弁論術』

【出典】On-going debate
また、学生の中にはシャイなのか、あまり発言しない者もいた。しかし、発言をしないというのは、一種のリスクがある。つまり、発言するリスクもあれば、逆に発言しないリスクの両方があるということである。発言するリスクとは、言うまでもなく、自分の意見の足りない点が皆の前で明らかになり恥をかくことである。しかし、これは恥ずかしいと同時に利益にもなっている。つまり自分が気づかなかった、あるいは思い至らなかった間違いが正されるからだ。一方、発言しないリスクとは、自分の考えが果たして正しいのか、間違っているのかが分からない。喩えてみれば、血液検査をしないでいるとたとえ自分が病気に罹っていても分からない。そのまま放置しておいて病気が進行してしまうリスクもある。自由に議論が許される雰囲気であれば、やはり積極的に発言し、自分の頭で考えて出した結論が皆にどう評価されるかという客観的視点を得ることが必要だと考える。
(もっとも、世の中には自由に発言できない雰囲気の会議は多いのも事実だが、その一方で、『賢者の集まりにおいては、愚者の飾りはただ沈黙のみ』というサンスクリットの箴言もあるらしいが。。。)
総じて言えるのは、現在の日本の学生には、議論に対するタフさが欠けている。これは特に欧米や東南アジアや中国の留学生との比較で強く感じる。たとえば、自分の主張への反対意見が述べられると、おどおどしたり、安易に相手の意見に迎合したり、有効な反論ができず感情的になり怒ってしまったりする。また、勇ましく主張を続けていても、途中で論旨の展開がつづかず話がポキリと折れてしまうような脆弱さを感じることも多い。これらの弱点を矯正するには、冷静になって議論を続けるという練習を繰り返し行う必要がある。
とりわけ、現在の国際社会では英語による議論が求められることから、少人数で英語での議論を繰り返し実践し、議論の要諦を修得する必要があろう。特に実戦的な見地から言うと、何もがんがんと自分の意見だけを主張するのが得策ではない。場合によっては、ユーモアで場をなごませたり、舌鋒鋭い相手の矛先を上手にかわしたすことも必要であろう。さらには、長舌を振るう論客に不快感を与えずに話に割り込む、といったテクニックを修得することも必要であろう。これらのテクニックは授業のような場で系統だって教えることは難しいと感じる。実際の議論の場で、その都度、指摘していくのが最善であろう。つまり、議論をするこつ、というのは学べるもののではなく習得する『技・術』であり、徒弟制度的に口伝で教えるようなものではないかと私は考える。
日本の大学のレベルは国際的に見て、特に米英と比較して、高くはないが、私は知的能力から言うと必ずしも劣っていないと感じている。ただ、その能力が外から見えない。外に向かって発信する能力が問われている。この意味で、今回のようなディベートで各人が自分の足りなかった点を気づき、その点を改善していって欲しいと願っている。
このディベートの進行役しながら、感じたことを以下に述べたい。
まず、このようなディベートは初めての学生が多かったようで進行にかなり戸惑っていたようであった。そもそもディベート(debate)とはその語源を探ると de(強調辞) + bate(叩く)である。これからディベートとは『徹底的に(相手を)叩きのめす』という意味合いがある。つまり、議論する、というより、相手の言辞をとらえてその論理矛盾を衝き、自分の主張を押し通すという、極めて論争的な意味がある。ところが、相手を思いやる美風の日本に育った学生達には、このようなアグレッシブ(aggressive)な態度は、たとえ練習と分かっていても取れなかったようだ。
しかし相手の論理の欠点を衝くというのは、意地悪いだけではできる事ではない。相手の話を聞きながら、自分の頭のなかでその論点を整理し、相手の話しを構造を完全に理解した上で、どの点で論理が矛盾しているか、欠落しているかを把握し、かつ、それをどのように衝けば一番効果的かを瞬時に判断できないといけない。要するに、教育的観点から見たディベートの意味は、相手を叩くことではなく、自分の頭のなかの整理能力の向上にある、と私は考える。
その意味で、相手の話を聴いている時もそうだが、自分が話す場合にも、話すテーマについて、どのような順序で話すかという『話の筋道マップ』ができあがっていなければならない。ところが、学生達の話を聴いていると、このマップを描いて話を進めている学生はわずか2割程度であった。大抵の学生は、マップがないまま、あたかも海図を持たないヨットが大海にでて風に吹かれるまま漂流しているように、論旨不明瞭な話し方をしていた。私も、学生時代を振り返るとこのような拙い話し方であったが、残念ながら小学校からの教育ではその点を具体的に指摘された記憶がない。つまり、日本では学校教育の中で明瞭に話すという訓練がなされないのだ。しかし、本人は自分自身の話し方について苛立ちを感じているはずだ。そしたらどうすればこの欠点はどのようにすれば改善できるのか?この点については下記のブログ参照:
想溢筆翔:(第14回目)『外国語会話上達にもつながる弁論術のポイント』
想溢筆翔:(第38回目)『プラトンに学ぶ弁論術』

【出典】On-going debate
また、学生の中にはシャイなのか、あまり発言しない者もいた。しかし、発言をしないというのは、一種のリスクがある。つまり、発言するリスクもあれば、逆に発言しないリスクの両方があるということである。発言するリスクとは、言うまでもなく、自分の意見の足りない点が皆の前で明らかになり恥をかくことである。しかし、これは恥ずかしいと同時に利益にもなっている。つまり自分が気づかなかった、あるいは思い至らなかった間違いが正されるからだ。一方、発言しないリスクとは、自分の考えが果たして正しいのか、間違っているのかが分からない。喩えてみれば、血液検査をしないでいるとたとえ自分が病気に罹っていても分からない。そのまま放置しておいて病気が進行してしまうリスクもある。自由に議論が許される雰囲気であれば、やはり積極的に発言し、自分の頭で考えて出した結論が皆にどう評価されるかという客観的視点を得ることが必要だと考える。
(もっとも、世の中には自由に発言できない雰囲気の会議は多いのも事実だが、その一方で、『賢者の集まりにおいては、愚者の飾りはただ沈黙のみ』というサンスクリットの箴言もあるらしいが。。。)
総じて言えるのは、現在の日本の学生には、議論に対するタフさが欠けている。これは特に欧米や東南アジアや中国の留学生との比較で強く感じる。たとえば、自分の主張への反対意見が述べられると、おどおどしたり、安易に相手の意見に迎合したり、有効な反論ができず感情的になり怒ってしまったりする。また、勇ましく主張を続けていても、途中で論旨の展開がつづかず話がポキリと折れてしまうような脆弱さを感じることも多い。これらの弱点を矯正するには、冷静になって議論を続けるという練習を繰り返し行う必要がある。
とりわけ、現在の国際社会では英語による議論が求められることから、少人数で英語での議論を繰り返し実践し、議論の要諦を修得する必要があろう。特に実戦的な見地から言うと、何もがんがんと自分の意見だけを主張するのが得策ではない。場合によっては、ユーモアで場をなごませたり、舌鋒鋭い相手の矛先を上手にかわしたすことも必要であろう。さらには、長舌を振るう論客に不快感を与えずに話に割り込む、といったテクニックを修得することも必要であろう。これらのテクニックは授業のような場で系統だって教えることは難しいと感じる。実際の議論の場で、その都度、指摘していくのが最善であろう。つまり、議論をするこつ、というのは学べるもののではなく習得する『技・術』であり、徒弟制度的に口伝で教えるようなものではないかと私は考える。
日本の大学のレベルは国際的に見て、特に米英と比較して、高くはないが、私は知的能力から言うと必ずしも劣っていないと感じている。ただ、その能力が外から見えない。外に向かって発信する能力が問われている。この意味で、今回のようなディベートで各人が自分の足りなかった点を気づき、その点を改善していって欲しいと願っている。










